第504章その夜、我々は、劇団事務所で内輪の打ち上げ会をしていた。私を含め、全員が体力の限界に挑戦させられるような舞台に翻弄されていた。
欠席の座長に代わって、副座長の挨拶が済み、全員の乾杯の声が響き、そのまま散会になった。
私は、事務局長の父と一緒に、タクシーに乗った。
「有紀は顔出さなかったね」父が、なぜだと言わんばかりに呟いた。
「数日前から、少し体調が悪いの。ベッドの上で、何となく過ごしているみたいよ」私は、嘘も方便だと思いながら、父の呟きに答えた。
「単なる体調不良なら良いのだが、母さんが言うには、有紀の様子がおかしいのだけど、どうしたものかって電話があったよ」
「様子がおかしいって、例えば?」
「いや、母さんの話も要領を得ないので、ハッキリしたことは言えないのだけが、鬱のような症状じゃないのか、そんな風に心配しているようだったね」
「あぁ、そう云うこと。だったら、違うよ。いま、有紀は、シナリオ作家として、一皮剥けようと藻掻いていると云うか、脱皮の真っ最中なのよ。だから、傍から見ると、少し変に見えるんじゃないの」
私は、父に、少なくとも、有紀の状態は病的でないことだけは伝えておきたかった。
「それなら良いんだが。まあ、涼も、時々気をつけておいてくれよ」
「わかった。ところで、父さん、最近毎日母さん、我が家にいるんだけど、父さん、一人で大丈夫なの?」
「あぁ、問題ないね。どちらか言うと、人生で最高の期間かもな」父はニコニコしながら、車窓を覗き込んでいた。
「そう、なら良いよね。それなら、独り身をエンジョイして貰っていて好いんだけど、何か問題が起きたら、いつでも構わないから、吉祥寺の家の方で暮らしても構わないからね。老婆心な言いぶりだけど……」
「ありがとう。その言葉を貰うだけで、終身保険に入った気分だよ、ふふふ」父も、それなりに、同居の誘いは嬉しかったようだ。
家は静かだった。
母も“ゆき”も既に眠っていた。あれ程、母に、“ゆき”を養育されることを毛嫌いしていた私が、一身上の都合で、母を便利に使っている心苦しさはあったが、現状ではベストな選択だった。
週に二日、田沢さんが顔を出してくれた時に、母は高円寺のマンションに帰宅して、洗濯物などを片づけているようだったが、今のところ、不平不満は聞かれなかった。
彼女の性格から、嫌なことを我慢する積りはないだろうから、母が、何か言ってこない限り、現状を維持しておけば良いのだろうと、親心に胡坐をかいた。
母の部屋を横目に見ながら、私は、階段を昇った。そして、コートを脱がずに、有紀の部屋のドアを開けた。
私が顔を覘かせると、“待った!”と、手の平を向けて、話すなと、機先を制した。
私は、有紀のオマジナイのような瞑想が終わるまで、ジッとベッドに横たわる、36歳の独身女を見つめ、立ち尽くしていた。
「ああ、もう良いよ。どうだった、楽日は?」
「大入りの500円玉配られたから、まあまあじゃないのかな?」
「そう、今度は動きの少ないのにするから、帳尻合わせて」有紀は、自分のシナリオが、演技者に過大の肉体的疲労を与えていることを知っていた。
ただ、有紀が、なぜ、あのように動きの激しいシナリオを用意したのか、何となく理解していた。副座長の福田君が、繊細な演出で立ちどまらずに済むようなシナリオを書いていた。
演技者には過酷だったが、演出担当にとっては、意外に楽な展開のシナリオだった。敢えて聞く必要もないが、有紀の自然体から出てくる、優しさなのだと理解していた。
「今日は楽日だから、行くつもりだったんだけど、途中で閃きがあったから、サボっちゃった。怒っている人いたかな?」
「いないけど、福田君には、ひと言かけてやっても良いんじゃないの」
「大丈夫、もう電話でフォローしておいたから」
「ところで、その“閃き”って、何なのよ?」
つづく
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