第17章ホームに降りた人々は、足早に目的地に向かって、歩きだしていた。
俺には、目的地がないのだから、急ぐ必要はなかった。
しかし、だからといって、いつまでも、ホームに佇んでいるわけにもいかなかった。
そぞろ歩きの旅でも愉しむつもりで、階段に向かって一歩目を踏みだした。
山の手線では珍しくなったが、ホームは一面2線の高架駅だ。エスカレーターなどと云う洒落たものはなく、昔ながらの階段があるだけだった。
昔から、駅前にコリアン・タウンが拡がっている街と云うことは判っていたが、駅舎に関しては山の手線駅としては冷遇されている印象があった。
しかし、“三丁目の夕日”モドキの駅舎と思えば、ノスタルジックな趣もあった。
疲れたわけではないが、階段を一歩一歩昇りながら、先ほどの爆弾女敦美のことはすっかり忘れて、シャネル・スーツに包まれた女の女体に、妄想を膨らましていた。
あの女は、どこの駅まで行くのだろうか。
外回りに乗っていたと云うことは、下町が続くわけだから、そのどれかの駅に降りるのだろう。場合によると、京浜東北線や常磐線と云うことも考えられた。
しかし、あの服装で、遠くまで帰る雰囲気は感じなかった。
やはり、池袋と見当をつけるのが妥当な気がした。
場合によると、その前の目白と云うこともあるなど、愚にもつかないことを考えていた。
階段の中ごろまで昇った時、俺の耳は、ヒールの音を背中に捉えた。
……どこにいたのだ?……
幻聴ではない背中に貼りついたヒールの音を、確実に受けとめた。
ホームに、女が隠れるような死角があったとは思えない。
走り去る電車の窓に目を凝らしている間に、その女は陽炎のように、降りていたのだ。
爆弾女と別れたばかりの俺は、爆弾女が変身して、追いかけて来ているような、錯覚に陥った。
女のヒールの音は、いまにも、後ろから襲いかかるような迫力で接近した。
俺は、まさに襲われる瞬間と思われる間合いで、歩みの道筋を中央から、左側に移した。
こうなると、女は、俺の右側を通過しなければならない筈だった。
一瞬、ヒールの音に戸惑いの間があった気がしたが、女は何事もなかったように、俺を追い越して行った。
俺の四肢は、一気に弛緩した。そして、思いもしない汗が、背中を走った。
余程の緊張が五体を強張らせていたのだと、半ば呆れながら改札を出た。
理屈抜きに、アイスコーヒーが飲みたかった。そして、カウンター席で良いから、煙草を吸いたかった。
喫煙者に親和性の強い喫茶店なら“ルノアール”だった。
主だった山の手線の駅前には、その“ルノアール”があるはずだった。
キヨスクで煙草を買い求め、お姉さんに“ルノアール”の場所を聞いた。
大久保通りを、新宿方面に歩くと、風月堂の次のビルに入っていると云うことだった。
急ぎ足で、ルノアールに飛び込んだ。
何も考えずに、アイスコーヒーを注文して、眼鏡をはずして、おしぼりでオヤジらしく、首筋を拭いた。
煙草には、まだ火をつけずに咥えていたが、スッと細い腕が目の前に伸びた。
カルチェの燃えるような漆塗りのライターが小気味よく炎を上げた。
何ごとかが起きていたが、俺は、それを考える前に、その炎の中に、煙草の先を向け、大きく吸い込んだ。
つづく
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