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第153
大谷と別れた俺は、敦美の部屋に向かった。
敦美のあらたな新居は、同じ中井にあったが、隣の声が筒抜けの部屋とは雲泥の差の高級マンションだった。
当初、物音のしないマンションに不満を言っていた敦美だったが、最近は環境に馴染みだしているようだった。
「変わりはないかな」俺は頼まれた買い物の袋をダイニングのテーブルに拡げて、いつもの挨拶のキスをした。
「変わらないけど、少し退屈かな」
「退屈ね。それは良くないけど、スポーツクラブはどうなっているの」
「通ってはいるけど、オジサンオバサンばかりでさ、何か刺激がないのよね」
「平日の昼間に行くからじゃないの」
「だって、夜だと、貴方が来るから、空けていなければならないし……」
「そうか。でも、火曜、木曜、土日は、原則来ないわけだから、その日の夜にでも行ってみたら、少しは刺激があるかもしれないよ」
「そうね、実際には、それほど刺激が欲しいわけでもないかな。ただ、お金の心配も、家族とかの心配もないわけでしょう。私は、何を心配したら良いのか、それが判らないの」
「心配ごとが欲しいってわけか……」
「贅沢だけど、心配ごとが一番の暇つぶしのように思えてくるね」
「現状、病気の心配もないからね……」
「地球の温暖化心配しても始まらないし……」
「そう、株でもやってみたら、少しは、心配ごとが出来るかもしれない」
「株式投資」
「1000万くらい元手に、ネットで株投資してみたら」
「儲かるかしら」
「儲かることもある、損する時もある。だから、人によっては、凄く心配ごとになる場合もあるから……」
「犬を飼うのはどうかな」
「犬、好きなの」
「特に、好きでも嫌いでもないかな」
「だったら、面倒なだけじゃないの、結構うるさくまとわりつくよ」
「猫なら違うかな」
「種類によっては、人を馬鹿にしているような猫もいるようだけど」
「それじゃあ、置物と同じでしょう」
「たしかに」
「変な話だけど、心配ごとのない時間って、色んな欲望のようなものを吸いとってしまうみたいなの……」
「たしかに、性欲もなくなっているみたいだし、軽い鬱症状なのかもしれないね」
「それって、病気だよね」
「まぁ、病気だけど、本当に鬱って話じゃないから」
そんな話をしながら、それでも、挨拶のように、二人は身体を重ねたが、例によって、盛り上がりのない終わりを告げ、二人はまどろんでいた。
つづく
第152章
「いや、待ってください」大谷は慌てたように、強引にエンジンキーを切った。そして、訝しくふり返る俺に、強い視線を返してきた。
「問題はここからです。上野の敵討ちと言えば綺麗ごとですが、この事件、追ってみようと思っています」
「追う……」
「ええ、私が引き継いで、記事を書いてみようと思ってまして……」
「社内的には……」
「そう、言われるでしょうね。でも最終的には黙認でしょう。責任は編集長の範囲で止まりますから……」
「会社は、金だけ面倒をみるか……」
「そういうことです。まぁ、私も何時もなら、スルーした方が無難と割り切るでしょうけど、A政権のやり口が性に合わなくてね。幾分、向きになっているんですが……。ここまで、汚い手に出るとは、常軌を逸していますよね。だったら、こちらの逸脱してやろうかってね……」
「挑戦ですか」
「メディアの腰砕けが酷すぎますから、J党に一矢報いるのも悪くないか、そんな気分になっちゃいまして……」
「そうですか、僕が言うのはおかしいけど……」
「少し、青臭いんじゃないか、と」
「ええ、まぁ……」
「その気分を、自分なりに分析したんですよ。その結果、正義感のような青臭さはありませんでした。どちらかと云うと愉快犯、そちらに近い気分なのだな、と……」
「愉快犯ですか……。しかし、正体まる見えの犯行ですから、相当にあぶない感じですけどね」
「ええ、きっと危ないと思います」
「敢えて危ないからやってみる、そう僕には聞こえますけど」
「そこまでは考えていませんが、上野だって、危ないかもと思いながら取材していたと思いますからね、自分の部下が、そう思って取材していたものを、其の侭お蔵入りさせる気にはなれませんよ。それに、のぞき趣味というより、社会的要求にも応じている事件ですから……」
「たしかに、A政権に鉄槌を喰らわせるのは、社会的には正義でしょうけど、返り討ちに遭う可能性も多いわけでしょう」
「まぁ、女房とも別れてますし、ひとり娘は、アフリカの難民キャンプで医療に従事していますからね、狙われる心配は、わたし一人ですから……」
「一人でも、充分に危険なわけですよ」
「ええまあ、私は大丈夫ですから」
「自分一人なら、身は守れるとでも」
「いや、奴らに掛かれば、どんなに防御しても無理ですよ。ただ、上野を消した上に、私まで消すのは、彼らにとってもリスキーでしょうから、違う手に出てくると読んでいます」
「なるほど、一理ありますね」
つづく
第151章
「実は、上野の原稿を頼りに後追いの取材を試みているのですが、どうも公安関係者の影が見え隠れしてきたんです。上野の原稿が公安絡みとなると、社内的には、腰を引く輩がウジャウジャいましてね、原稿の主が亡くなったことだし、没にした方が良いだろうと云う雰囲気でしてね、私も迷っている最中なんですよ」
「しかし、この原稿を読む限り、公安が動くと云うのは解せませんね。組織犯罪の部署が取り扱うのでは」
「そこです。たしかに、上野のこの原稿から推察する限り、組織犯罪5課が動くべきで、公安事犯とは言えないわけです。ですから、上野は、この原稿を書き上げた後で、公安が動くようなネタ元に辿りついてしまったと考えられるわけです」
「公安と云うことになると、内調絡みですから、CIAや暴力団も絡んできますね。であれば、上野さんがお台場の海に浮かんでも不思議ではない。そういうことになるでしょうね」
次第に、二人の声はトーンを下げてゆき、漸く互いの言葉が聞き取れるレベルになった。
「大谷さん、まだ時間があるようでしたら、車の中で話しましょうか」
「一時間くらいなら」大谷が大仰に腕時計を目を細めて見た。
二人の姿は、俺の車の中にあった。
「やれやれ、厄介なネタですね」
「今になると、上野さんに渡さなければ良かったと後悔しているんですよ」
「いや、それはありませんよ。我々は、その流されてくるネタの真偽を確かめて、記事を書いているわけですから、ネタ元に責任を押しつけたら、もう、週刊誌の記者などは辞めるべきですから……」
「あの、上野さんが、“Kノート”と称するデータは、出処から類推すると、ある種の商品を販売する顧客データだった可能性があったわけです。僕は、或る筋から、偶然ですが、そのデータを欲しがっている人々の情報を得ていたわけです。その求めている集団の日々の動きから、覚醒剤に関わるものだと推理しましたけど、そのことは、僕には無関係でしたから、Kノートなるものに興味はなかったのです」
「探している側が胡散臭かったので、その情報の価値を知っていた」
「そう、顧客データなのだろうと……」
「そして、偶然にも、そのデータを、饗庭さんは拾った」
「まあ、拾ったと云うか、見つけた」
「しかし、それだけのことなら、それ程、慎重に扱うデータとは思えませんけど……」
「そう、それだけのものであれば、僕には、何の価値もないから、ゴミ箱行きだったわけです……」
「しかし、そのデータの中に、価値のあるものを見つけてしまった……」
「価値ね。一定の人物たちにとっては価値のあるデータなのだろうと想像は出来たな。俗にいうところの金の生る木なのだろうと……」
「でも貴方は、そのデータを上野に渡した」
「そう、金の生る木にはならないけど、週刊誌ネタには充分なものかとね」
「敢えてお聞きしますけど、金にはならないが、週刊誌のネタになると判断した理由は……」
「データの中に、この人物に見覚えがあったからかな……。ところで、そのデータは警察に押収されたのですか」
「いや、運よく、私のロッカーに保管されていたので、セーフでした」
「じゃあ、そこから先は、僕の知識は不要でしょう」
大谷は、何かを言いそびれているようだったが、あまり聞かない方が良さそうな話のようなので、エンジンを掛けた。
つづく
第150章
「何故、上野は、A氏と書かなかったのか。そこですよね」
「何らかの意味で、かなりリスキーな記事かもしれないと、直感的に感じたかもしれませんね」
「初稿の時点からリスキーな記事だったと云うことは、既に、書いている時点から、危険を知らせる、何かが身辺に及んでいたことも考えられますね」
「それで、ネタ元の身を案じて、Y氏にした可能性はありますけど……、その辺の癖は、大谷さんの方が、よくご存じでしょう」
「そうですね。上野は、それほど気を回せるタイプじゃなかった印象があります。饗庭さんに、何かシンパシーを感じていたのかもしれません。彼が入社した頃は、当週刊誌のナンバーワンの書き手が饗庭さんだったことが影響しているのかもしれないのですが……」
「たしかに、A氏となれば、私がネタ元だと、社内に知れ渡るに違いないと、彼が気遣った可能性はあるでしょうね」
「ニュースソースをぶっちゃけて聞いてしまうのですが、饗庭さんが、Kノートを入手した経緯に違法性はありませんか」
「そうですね。ないと言えば嘘になるし、あると言えば、大袈裟すぎて、別件逮捕になるでしょう。まぁ、無主物を拾って届け出なかった、そんな程度のものです。仮に、あきらかに金目のものを拾って届けなければ犯罪ですが、誰のものか、何が入っているか判らないSDカードを拾っただけですから、ほぼ違法性はないでしょう」
「早い話、ゴミ箱に捨てても、何でもないSDカードってことですね。ただ、偶然貴方は、そのSDカードに、何らかの秘密なデータが入っているかもしれないと、感を働かせた」
「まぁ、そういう見立てで良いでしょう。そのSDカードに見覚えの名前があったので、もしかすると、何らかの記事の参考になるかと思って、警察ではなく、上野さんに渡した、そういうことです」
「つまり、饗庭さんは、そのSDカードが何であったか知らなかったわけですね」
「いや、亡くなった片山さんが、麻薬犯罪に手を染めていた情報は持っていましたから、その方面のデータではないかと想像はしましたよ。でも、そのデータが麻薬犯罪に絡むデータだとは、上野さんには伝えていません」
俺は、ここで嘘をついた。
ここで嘘をつかないと、片山敦美の関係も話す羽目になるわけで、話が連鎖的になり、寿美家族に行きつき、寿美まで巻き込む話になってしまうことを怖れた。
このような嘘は、事件を追っていく場合、往往にして出遭うもので、大筋においては、大差ないのだ。
ただ、少なくとも、敦美は、多くの事情から、守らなければならない存在だったからに過ぎなかった。
つづく
第149章
寿美と別れ、家に向かって走っている車の中で、その電話は鳴った。
週刊S誌の編集長からの電話だった。
すかさず、“ジャズバー静”を指定した。
上野の突然の死に関して、社としても状況の把握が必要で、出来ることなら、上野の掴んだ情報を記事にしたい、という一件での電話だった。
週刊Sの編集長として、腹を決めるためにも、上野が書きあげたゲラの信憑性を確認したいので、会って話を聞きたいということだった。
“知らない”と俺は断ることも出来た。しかし、俺の情報で、上野が殺されたのは事実だろうから、責任を感じないと言い切る自信はなかった。
週刊Sの編集長が動きだした以上、情報のネタ元を漏洩するようなことはあり得なかった。それに、俺自身を、ネタ元にするつもりもなかった。
週刊Sの編集長は、長身痩躯な五十がらみの男だった。
“S出版取締役・週刊S編集長・大谷雄一”と云う名刺がテーブルに置かれた。
“饗庭龍彦”の名刺に、肩書はなかった。
「上野さんの事件の捜査に進展は」
「いや、警察からは、事情聴取は受けましたが、ご存じのように、あちらは聴取するばかりで、捜査の情報は都合の良い時だけ公表するだけですから……」
「まぁ、そうでしょうね。それで、上野さんの原稿の真偽を確認したいと云うお話ですけど、どのような事実関係でしょうか」
「えぇ、本来、生の原稿をお見せするのは憚られるのですが、今回の場合、当週刊誌の記者が、不審な死を遂げたわけですので、特殊事情と云うことで、饗庭さんに読んでいただき、感想を聞かせていただきたいんですよ。無論、饗庭さんが、昔は有能なトップ屋として、多くの記事を書かれたことを承知の上です」
大谷は、使い慣れた黒革の鞄から原稿の束を引き出し、俺に手渡した。
一瞬、上野のぬくもりを感じたが、原稿を抱えていた大谷の温もりかもしれないと、情緒にかぶりを振った。
上野の原稿は、事実関係を要領よくまとめた上で、そのことから推量できる問題点を、書き手の推理力を駆使した上で、上手にまとめられた原稿だった。
読み終えた俺は、フーとため息をついて、原稿をテーブルに置いた。しかし、直ぐに、大谷に返す訳ではないと言わんばかり、上野の原稿の束に指を重ね、トントンと叩いた。
そして、大谷が、原稿を直ぐに取り上げないと確認した上で、煙草に火をつけた。
「よく書けた原稿です。事実関係も、概ね正確です。後半の推理の部分には、多少の無理がないではないのですが、週刊誌としては許される範囲の推理の逸脱だと思います」
「事実関係は、概ね正確なわけですね」
「ええ、事実です。片山の死と、“Kノート”の持ち主が同氏であるかどうかの確認は出来ていませんが、片山が殺された以上、確認のしようがなかったのですから、仕方ありませんからね」
「ある人、上野はY氏と書いてあるのですが、このY氏が誰であるか、気にはなりませんか」
「なりますよ」
つづく
第148章
「お兄さん達の商売は順調そうなの?」
「そうみたいね。一週間くらい前に、当座の生活費だと言って三百万渡されたから」
「三百万か、それは豪勢だね」
「そうよ、何年ぶりかな、兄達からお金貰ったのは……」
「そんなに長く食べさせていたわけか」
「まぁ食費以外は、自前だったから、大金が必要だったわけでもないしね……」
「それにしても、どうして……」
「そうよね。どうして、そんなに金回りが良くなったのか、そういう疑問よね」
「そう。まぁ俺が考える問題じゃないけれど……」
「そうね、おそらく、何かがキッカケで、仕事が回るようになったのだと思うの。糞づまっていた状況から抜け出せたような感じかな……」
「その何かってのは、例の敦美さんの旦那さんが持っていた、問題のノートってことなのかな」
「さあ、どうかしら。色々と悪事に手を染めて生きてきた人たちだから、チャンスを手にしたら、殺人以外なら、何でもするだろうから、想像はしないことにしてるの。幾ら考えても、仮に、状況が把握できても、家族の、そういう部分をとめる力は、私にはないから……」
「流れに逆らわないってことか……」
「だって、部外者でいる以外、私には、身を守る術はなのだから。私、そろそろ行くね」
寿美は、俺の反応を待つことなく、部屋を出ていった。
寿美の家族が、俺が送りつけた“片山ノート”の情報を活用して、大々的に、商売を開始したことは確認出来た。
ということは、そう遠くない時点で、彼らは逮捕されるに違いなかった。
寿美の家族が逮捕されても、何の問題もなかった。ただ、“片山ノート”のコピーが押収されることは、あまり好ましくなかった。
物証の押収は、思いもしない証拠が見つかるリスクがあった。
充分に注意したつもりだが、DNAを中心とする科学捜査の水準は向上の一途で、俺の関与が、炙り出されかねない杞憂があった。
無論、関与が炙り出されても、犯罪には無関係なのだから、警察の厄介になることはなかった。
しかし、内閣情報調査室(内調)やCIAは、犯罪性の有無に関わらず動く組織なのだから、安心は出来ない。
権力にとって不都合な事実や人物が、この世から抹殺されている事実は、現実に起きているわけで、無視するわけにはいかなかった。
現に、上野は犯罪者でもないのに、あっさりと消されているのだから、用心に越したことはない。
ただ、内調やCIAに対して用心するということは、自分の消息を消し去ることで、到底俺には出来ない事柄だった。
車で轢き殺される。30万程度で雇われた殺し屋に刺されるかもしれない。駅のホームから突き落とされる場合もある。車のブレーキが壊されることもある。レストランのサラダに毒薬が盛られるかもしれない。家に放火して、情報の隠ぺいを企てるかもしれない。拉致監禁の末に、堂々消される可能性もあった。
そういう意味では、上野の死は、俺の身にも、危険が迫っていることを暗示していた。
つづく