第439章金曜日、私は“竹村ゆき”を看護師から受け取った。
ベビーカーはまだ購入していないので、抱っこ紐の扱い方を看護師から教授されて、新米ママの胸の中で、“竹村ゆき”は取りあえず、健やかな寝息を立てていた。
田沢君のお母さんが言うには、新生児の赤ちゃんが泣くときは、お腹が空いたか、オムツが汚れているかのどちらかだと思えば間違いがない。仮に、それでも泣きやまない場合は、体温やその他、赤ちゃんの身体全体の状況をたしかめ、何時でも構わないから、私に電話して、と心強いアドバイスを貰っていた。
タクシーの中で泣かれては、と思いながらヒヤヒヤした心地で乗っていたが、“ゆき”は私を悩ますことはなかった。
足早に、エレベーターに乗り込み、私は“ゆき”と一緒に初めて、神楽坂の部屋に落ち着いた。
赤ちゃん七つ道具が、私に安心感を与えた。いつ、泣き出すのだろうかと身構えていたが、“ゆき”は一向にその気はないらしく、規則正しい寝息を立てていた。
私は、余計なことをして起こすのは拙いと思いながらも、ついつい、その頬を指で突いてみた。
驚くほど弾力のある反発が返ってきた。そして、その肌は、薄いピンク色に満たされ、滑らかなことは驚がく的だった。
そういえば私は、朝、トースト一枚食べただけで、何も口にしていなかった。特に空腹は覚えなかったが、母乳生産機としては、栄養補給の責務があった。
かといって、いつものようにファミレスに気軽に出かける、と云う気にもならなかった。乳飲み子を抱えると云うことの意味が、僅かに理解できた。
こんな不自由なことを、田沢くんのお母さんに半年近く押しつけてしまう心苦しさが、更に深まった。そして、治療が終わったとには、この私が、一身に、その不自由の中に埋没してしまうのだった。
思ってみると、トンデモナイ環境の変化だ。このような、環境の変化に、多くの母親たちが経験させられているのかと思うと、子供が少なくなるのは、必ずしも経済的理由とか、保育所が足りないと云う理由ばかりが原因ではないように思えた。
無論、経済的理由も要因の一つだろうが、文明の発達が根底にあるのだと理解していた。子供を作る以前の、結婚への必然性が、社会的に求められていない、現実を無視した議論は、どこか、議論のための課題のようにも思えた。
私は、多少冷めても食べることに問題のない、中華をケータリングした。有紀が帰ってくるかどうか判らなかったが、取りあえず三人分の料理を注文した。
ひさびさ、キッチンに立って、野菜サラダをつくり、背中で“ゆき”に耳を澄ませた。
“ゆき”を私が受け取って、どのくらいの時間が経過しているのだろう。
私は、そこまで考えて、“変だ”と思った。
たしか、新生児の授乳スパンは1~2時間おきのはずなのに……。仮に、受け取る寸前に授乳したとして、もう、二時間近くが経っていた。
私は、野菜サラダをそのままに、ラブチェアーに戻り、乳房を剥きだしにして、“ゆき”の唇に乳首をあてがった。
寝息を立てていた筈の“ゆき”の目覚めはよかった。
もしかすると、半分寝ながら乳首を吸っているのかもしれないが、母乳は順調に“ゆき”によって吸われていた。
呑んでいる母乳の半分ほどが、“ゆき”の唇から漏れて流れ出ていたが、特に気にせずに、吸う力が弱まるまで吸わせておいた。吸いつく力は、思った以上に強くなかった。たしか、新生児の吸飲力は弱いので、こまめに授乳と云う言葉を思い出していた。
七つ道具の中にヨダレ拭きのようなものはなかったので、ティッシュで涎をふき取り、オムツ交換に取り掛かった。
うっすらと緑がかった便だったが、健全かどうかの見分けはつかなかった。
ただ、お腹が空いていた筈なのに、オムツ交換が必要だったのに、“ゆき”が泣かないことに、私は不安を感じた。自己表現が弱いと、一人前の人間に対する評価まで加えていた。
しかし、この程度の不安で、田沢君のお母さんに電話するのも馬鹿げていた。この程度は、ネットで検索すれば判ることだし、心配の類ではないのだろう。
環境の変化に、“ゆき”は戸惑っているのかもしれなかった。誰だって、初めてのところに来たら、安全な所かどうか、理解するまで、大人しくしているのは、大人も同じことだろう。私は、意味不明な考えを巡らせて、自分を納得させた。
つづく
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