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終着駅429


第429章
 
有紀とふたりの三泊四日の箱根の旅は、一時の安らぎを与えてくれた。シーズンオフのお陰で、他に宿泊客はいるのだろうかと訝るほど静かだった。

性的なニオイもなく、互いに、読むことが出来なかった本のページを捲り、時おり、どちらからともなく他愛のない会話を愉しんだ。

宿の食事は、取り立てて褒めるほどのものではなかったが、苦情を言う程でもなかった。

昼食を、箱根周辺のグルメ・ガイドを片手に、食べ歩きをした所為か、宿の食事を給食のお弁当に位置づけておいたのが功を奏した。

谷底に位置する、その隔絶された宿。まして、その離れとして用意された私たちの部屋は、まさに静寂そのものだった。

時々、ページを捲る音、専用野天風呂の天井から落ちる湯のしずくが、わずかな動きを、表現していた。

宿専用の一本のロープウェイが、日常と隔絶した宿と、僅かに日常を感じさせる箱根の町を繋いでいた。

有紀も、旅の終わりの列車の中で、日常の猥雑さのようなものに、もっと目を向けた作品を書いてみたい、と自分に言い聞かせるように呟いていたのが印象的だった。

彼女なりに、「蒼い描点」とは異なる作品を、いずれ見せてくれる気力を目に滲ませていた。

私は、その三泊四日の間に、自分の意志だけで、自分の人生をハンドリングしようと云う感覚を捨て去る気になっていた。

理屈では、どうにも制御できないことの連続に、苦悩したのは、自分ですべてをコントロール出来ると考えていた、自分の思い上がりが、脆くも運命によって覆された事実を確認していた。

殊更に抗う必要もないことまで、抗って生きてきた自分が、馬鹿じゃないのかと思える出来事を経験することで、運命に添って生きる、人間の知恵の力を感じていた。

そう云うものを、考えた上で行き着くのではなく、考えずに行き着いた人々を、蔑んでいた自分に幾分呆れながら、遠回りはしたが、大きな部分で、運命をひっくり返すと云うのは、人間の力では無理なのだと、いくぶん納得の境地に入っていた。

考えてみると、圭も美絵さんも、運命に添って生きることを理解しない内に、自ら命を絶ってしまったように思えた。酷く残念なことだが、もう手遅れだった。

自意識だけで生きると云う事は、見た目はアグレッシブなのだが、張りつめた琴線のようなもので、無謀な外部からの刺激や暴力で脆くも切れてしまうものなのだった。

ゆるゆると、だらしなく生きていくことは、時に自尊心を傷つけることはあるだろうが、逞しくもある。

一児の母になった以上、これからは、緩くしなやかに、時にはだらしなく生きるのも、生き方の一つだと理解出来る心境になっていた。

私自身が、そのような生き方に、全面的に依存するのは無理だとしても、他者をみつめる時には、そのことを忘れないようにしなければと思った。

許容と云う概念が存在するのは、きっとこう云うことに違いなかった。そんな風に考えていくと、母への思いも、幾分和らいでいた。
つづく

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終着駅428


第428章

「済まんかったね。勝手に先走り人事に手をつけちまって」

「本当ですよ。社内的雰囲気もあまり好感を持って受けとめていない感じですから・・・・・・」

「そうなのか。しかし、どうしてかな?」

「さあ、具体的な何かがあるわけではなく、皆の不安感じゃないのでしょうか?」

「不安感?どういうことかね?」

「ですから、具体的ではない不安な気持ちです」

「どうも理解出来ないんだがね、何か滝沢さんの解釈はあるんなら、教えて欲しいんだが・・・・・・」

「それは、一つも確かめたわけではありませんので、推測ですけど、一つは、秘書室長の取締役再任がないと云うメッセージが、自他ともに伝わったことです。判官びいきとでも言うのでしょうか、同情が生まれると同時に、押しのけるのは、滝沢涼だという、間違ってはいますけど、かなりの人が思いこんでしまった。そう云うことが疑われます」

「そりゃあお門違いだろう。君には何の関係もない人事だからな」

「ええ、その通りです。でも、事実を知らない人が、どのような憶測を働かすのも勝手ですから・・・・・・」

「ふ~ん、勝手か・・・・・・。根回しがなさ過ぎた、そう云うことかな?」

「そうとも言えないでしょうね。当社の場合、こういう唐突な人事は、社長の十八番でしたから、社員は、社長に対して、どうこう考えてはいないと思います。実例として、幾つかの異例の人事は全部成功していますから。ただ、その成功にの裏には、抜擢された人たちが、その異例な人事に答えを出して、結果的に、成功に導いた功績が隠れているのだと思うんですよ・・・・・・」

「それは、その通りだ。俺の力だけで、そのようなことになったとは思っておらんよ。だから、奇妙な圧力になるとまずいんだが、滝沢君にも頑張ってほしいということだけなんだけどな・・・・・・」

「社長は根っからの起業家であり、根っからの経営者だということです。無論、それだから、社員全員がついてくるわけです。それは、この会社に入った時、そこには、既に社長という存在があったわけです。そして、実力もあったから、全員異存なくついてきてるわけです。ここまで、社長、了解ですよね?」

「あぁ、異存ないね」

「で、ここからが肝心なんですけど、社員と云うもの、人事に関してはトコロテンのような発想になります。取締りの秘書室長の代わりに、私が座る。つまり、取締役に就任するな、と発想してしまいます。そうなると、残された役員の中で、社長の穴を埋めるのは、年齢的に四十代を想定します。うちの役員は困ったことに、皆さん、社長の年代に近い人が多い。四年もすると、滝沢さんは四十代だ。そう云う短絡的答えに行きつくものです」

「いいじゃないんか、判られた方が」

「それは、社長のように経営に強いモチベーションがあれば、それも、選択の一つだと思います。でもですよ、私は、単に新卒で当社に就職しただけの人間です。与えられた仕事に情熱を燃やせることは可能でした。そこには、具体的目的があり、起点と終着点がある仕事です。でも、経営って、企業が倒産でもしない限り、終着点が見えないポジションですよね。そこが重大なポイントなのです」

「なんだか、話がわからなくなってきたね。初めは、今後の私の立場がやりにくくなるような話しだったんじゃないのか?それが、どこで変わったのか気づかなかったが、経営になんか興味がない、そんな話になってきているんだがな」

社長は、ちゃんと私の話を聞いていたようだ。無意識に、話の方向が変わったことに気づいた。

私も、話しているうちに、なんだか、話の趣旨が違ってきたと思ったが、このままの成り行きで、社長の構想を台無しにしてしまおうとしたのだが、あっさりと見破られら。

「しかし、君の言わんとすることは判っているつもりだよ。いささか荒唐無稽な人事構想なのは承知している。君が困るということも想定内だ。
たしかに、映子じゃないが、あまりにも唐突なこと言われて、困るのは涼さんだじゃないのって、こっぴどく言われたからね・・・・・・。でも、私は、長年の勘で、君しかいないと踏んでいる。ただ、稚拙過ぎるきらいはあった。
だから、大幅にプロセスを変えようと考えている。しかし、最終的な終着駅は、滝沢涼の社長就任だ。
そうしないと、竹村氏が残した莫大な株券も紙屑になる。
大人に世界の話になるが、銀行が天下りポストを、暗に要求して来たもんだから、咄嗟に、そのポストを埋めてしまったと云う事情があるだ。無借金経営なのだから、むげに断ることも出来るが、要らぬ摩擦起こすのも大人げないからね……」

そんなやり取りが続いたが、特に三山社長を糾弾するつもりもなかったので、私も、考えてはみます、とモラトリアムに持ち込んだ。

これ以上、社長と将来的人事について、議論するのも時期尚早と、私は次の要件があると言って、会社から脱出した。
つづく

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終着駅427


第427章

両親のマンションの住み心地は快適だった。私の部屋は10畳近い広さで、ベビーベッドまで用意されていた。

この部屋の状況を、母の優しさと捉えるか、嫌みと捉えるか、私の心の問題だと、あっさり片づけた。

平穏な日常であれば、母の念入りな準備を、色々と詮索するところだったろうが、気づかなかったような顔で、翌日、昼近く、高円寺のマンションを出た。

会社の近くでタクシーから降りた私は、映子の携帯を鳴らした。映子は直ぐに出た。

「いま、どこですか?」

「会社の近くなんだけど……」

「いま、社長はいないと思うよ。いない方が良いのか、居た方が良いのか判らないんだけど……」

「そうね、いらっしゃれば、ご挨拶したいし、居なくても、取りあえず企画営業部と秘書室に顔を出しておくのが、筋かなって……」

そんな会話をしながら、私の足は確実に会社のビルの方に向かっていた。

企画営業部の社員の応対に、特別の違和感はなかった。口々におめでとうと云う言葉と、治療頑張っていと云う言葉が交錯した。

雰囲気が変わったのは秘書室に顔を出してからだった。取締役である秘書室長と並んで、私のデスクがあった。

そもそも、誰がこう云う並べ方をしたのか知りようもなかったが、まず違和感があった。仮に、私が、秘書室長の後釜だとしても、このデスクの並びは、現秘書室長に失礼だった。

ただ、今日の時点で、私が、それを口にするのは不適切だった。まだ、秘書室と云う部署のスタッフとして認知されていない私が口を出すべきではなかった。

それでも、全員が大人だから、通り一遍の挨拶は済ませた。そして、籾井室長の誘いに乗って、私たちは隔離された応接室の一つに入った。

「単刀直入な話なんですけどね、私と滝沢さんの、重要事項の引継ぎ問題で、実は頭を悩ましているんですよ。はじめは、こう云う人事を聞くまでは、次長に引き継ごうと思っていたのですけど、滝沢さんが来るのなら、貴女に引継ぐのが当然だと思うものですから、悩んでいましてね」

「その引継ぐ情報と云うのは、結構な機密事項なのですか?」

「何でもないのが大半ですが、明らかに、企業機密だなと云う類も、それ相当あるんですよ。それで、治療直前に引継ぎも変ですし、滝沢さんが正式に出社してからと思うのですけど、私は、6月の株主総会で定年退職ですから、それまでに、滝沢さんが出社していただければ、間に会うのですが……」

「たしかに、問題ですね。早ければ、4月か5月には退院出来るだろうし、出社も状況を見ながらだいじょぶだと思うんですけど……」

「しかし、治療ですからね。完全である必要が絶対条件ですからね、中途半端もいけない。つまり、不確定な部分をどのように埋めるべきか、その点で悩んでいるわけです。さり気なく、社長にはお聞きしたのですが、“なに、滝沢君は3月には、もう出社しているに違いない、気にしなくて大丈夫だ”そう言ったっきり、もう話さなくて良いぞってお顔ですからね。私としても……」

「そうですか。私も、今回の突然の人事に面食らっている一人なんですよね。わかりました。どうなるか判りませんけど、直接、社長の方に確認してみます。籾井さんとの引継ぎ問題もありますし、その他にもお聞きしたいことが、私にもありますから、直接確認するのが一番ですから……」

「そうして貰えると助かります」

「今日は、社長のスケジュールだと、帰社の時間とかお判りですか?」

「もう、まもなく帰ってくる予定です。あぁ、噂をすればですね、お帰りですよ」

秘書室から、“滝沢君が来ているらしいが、帰ったのかな”社長の大きな声が、隔離されている筈の応接まで聞こえてきた。
つづく

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終着駅426


第426章

私は翌日、有紀の反対を押し切って、両親の高円寺の新居に向かった。有紀の予想通りの母がいた。

しかし、母の感情が充分に吐き出されない内に、父が帰宅した。私は救われたが、母にはフラストレーションが残された儘だった。

きっと、父が、残りのフラストレーションを引き受けるのだろうけど、一大決心で泊りに来たことで、帳消しにして貰うしかないと、しらばっくれた。

ひょっこり顔を出した割には豪華なすき焼き鍋が用意された。肉も特上の霜降り肉だったが、母は何度となく、“いつもは食べないようなお肉なんだけど”と言いながら、黙々と箸を動かしていた。

食欲は健啖なようだから、体調に不安はなさそうだった。精神的には、あいかわらずの自己中心だったが、おそらく、それがあるから、彼女は健康を保っているのだろう。

受けとめる父の精神力が続く限り、問題はないのだろう。

母の攻勢に、父の心が壊れた時には、それは大問題なのだろうが、そんな風に考えたらきりがないので、途中で心配することを放棄した。

「それで、次の入院は、何時からなの?」

「2,3週間後くらいかしら」

「随分とアバウトなのね。そう云う事は、もう少しハッキリさせておいた方が良いんじゃないの?」

「そうね、でも癌細胞の数が増えない限り、ステージが上がることもないらしいので、ゆったりと構えることにしたの」

「そう、その辺は、私には判らないから、口出しはしないわ。ところで、赤ちゃんのことだけど、育児を他人に任せるって、それって大丈夫なの?」

「あぁ、育児の件ね。私が産んだ子供の場合、単なる未熟児だと云うだけではなく、幾つか心配な内臓機能の働きを観察しなければならないので、その辺の知識を備えている人に頼むのがベストだと、担当の先生に言われて、それに従ったの」

 「普通は、実家の母親に預けるのが自然だから、チョッと変だと思ったけど、そういう事情があるのなら仕方がないわね」意外に母は物わかりの良い言葉を返してきた。

「私だって、初めはそう思っていたけど、思いがけない早産じゃ、もう病院の指示通り、それしかなかったから……」

「良いのよ、なにもアンタの所為ってものじゃないんだから。ただね、そういう事情があった事を、私が承知しているかどうか、そこが問題だったのよ。他人は、赤ちゃんを、私に預けないのは、私と娘であるアンタとの関係が悪いんじゃないか、そんな噂を立てる人もいるからね。事前に、然るべき情報を流しておいた方がうるさくないと思ってね……」

母は彼女なりの理屈を並べて、着地点を見出した。私も、その問題を蒸し返すつもりはなかった。

「まあイイじゃないか。オマエだって身体が必ずしも丈夫なわけでもないのだから、子供の世話で、身体でも壊されたら、お互いに不幸になるだけだ。世間様が何を言おうと、我が家の事情ってのが優先だよ。それで、涼、治療は抗がん剤の投与と云う線なんだろうね?」父が、大きく話題を変えてしまえと言わんばかりに、今後の治療の話に持って行った。

「そのようよ。あまり、深くは聞いていないの。だいたい、やるべき治療は決まっているからね。後は、私の身体が、一回の抗がん剤治療で効果を表すか、或いは、二度目の投与が必要になるか、それは現時点では、医者にも判らないことのようだけど……」

「それこそ、天のみぞ知るってことか」

「そういうことになるみたいだわ。調子の良すぎる人生だったから、チョッと神様に悪戯されている最中なんでしょうね。ここを乗り越えれば、また、順調が戻ってくる。そんな気持ちでいるのよ」

そんな会話に、母は何故か口を挟まず、“アンタの寝床を作らないと”と立ち上がった。

私は、圭の死に加え、オマエにまで先立たれたら堪ったもんじゃないと、天に向かって挑んでいるような母の背中を、目で追った。その背中には、怒りと同時に、母親の肝っ玉がドンと構えていた。
つづく

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終着駅425


第425章

父からもメールが入っていた。

『 取りあえずの退院、おめでとう。有紀から、私に電話があり、孫を見に行く機会は、意図的に伸ばしておいた。
有紀の話では、あと三週間も待てば、管に繋がれていない赤ちゃんが見られるだろうと云う話だったので、母さんには、そのように伝え、説得しておいた。
母さんと云う人は、取りあえず、自分の感情を相手に吐き出したうえで、初めて、人の意見に耳を傾ける性癖があるからね、鬱積している感情を放出させてやる必要があるんだね。
君たち子供が、その被害に遭わないように努力はしてきた積りだが、充分だったとは言えないのだと、今回、色々と有紀と話して分ったよ。
有紀の青春時代の話なんかでは、父さんは蚊帳の外にいたことで、徹底的に糾弾されたが、正直、謝るしかなかった。
しかし、トンデモナイ人間になりはしないかと杞憂を持っていた有紀が、あんなにも気配りのきく人間になっているなんて、想像を絶する回答だった。
つくづく、人間と云うものは、社会に育てられるもので、親に育てられる部分は、意外に少ないと云う事を実感したよ。
話はごろりと変わるのだが、2,3週間病気の治療までの時間的余裕が出来たようだが、時間と体力が許すなら、一度、高円寺の我々の新居の方に顔を出して貰えると嬉しんだが。
というのも、母さんが、君と有紀の部屋まで準備してしまったんだよ。
俺は、馬鹿げたことするんじゃないと言ったんだが、頑として受け付けないんだな。流石に、圭の部屋を諦めてくれたのが救いだったよ(笑)。
そう云うことで、以前の一軒家に近い部屋数のマンションを買う羽目になったのだが、掃除だけでも後々大変なことになりそうだと、俺は苦笑いするしかなかった。
何と言っても、彼女が腹を痛めた二人の娘だからね、時々、泊まりに来る夢は持っているのだと思うから……。
何時までも、部屋の主が、もぬけの殻ってのも、一段落を感じさせないだろうからね。
これは、あくまで、涼の方の身体の調子や時間の都合などがつくのならと云う条件付きの話だけど、一応気に留めておいて欲しいんだ。
また、長いメールになってしまった。社内でも、もっと簡潔にしてくださいと、部下から文句を言われている(笑)。ではでは 』

たしかに、長文のメールだった。しかし、こういう用件は、電話よりもメールの方が、出来たら手紙の方が、相手方に伝えやすいのだとも思った。

父のメールを読みながら、それにしても自己表現の下手な母親にも困ったものだとため息が出てしまった。

決して悪い人ではなのだが、多くの他者とのコミュニケーションを取ることが苦手なのだ。彼女が小学校の教師であったことを考えると、どれだけの生徒が犠牲になったのか、おぞましい気分になる。

有りがたいことに、私は彼女と違う学校に通っていたので、被害は蒙らなかったが、直接指導を受けた子供たちの何人かは、心の病に罹ってしまったのではないかと訝った。

しかし、と思った。その彼女は、紛れもなく私の産みの親であり、私たちが泊まりに来ることを待ち望んでいる、母親でもあった。

目に入れても痛くないほど愛していた一人息子を失い傷ついているであろう母に、少しくらいの優しさを提供してやっても罰が当たるとも思えなかった。

父が、このような事を書いてくる事は珍しいわけで、きっと、ションボリと新居で、誰かの来訪を待っている母の姿を見るに見かねた面もあったのだろう。

私の心は、明日にでも、ふらりと泊りに行ってみようかと云う気持ちに傾いていた。

有紀は、ここ数日が稽古の山だと言っていたので、一緒と云うのは無理だろうが、退院したと云う報告を兼ねて、顔を出すのも悪くないと思った。

子供を、母親に預けない言い訳を考えた上で、好物の大福でも買って行こうと決めた。
つづく

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終着駅424


第424章

翌朝、昼過ぎに目覚めると、有紀は出かけたあとだった。今夜は夜が遅くなるので、自分の部屋に方に泊まるとひと言メモが置いてあった。

昔は、こういうメモは、日々目にしたものだが、最近では珍しいものになってきた。

携帯のデジタルなテキストとは違い、どこか温かみのあるものだと、チラシの裏に書かれた、意外に綺麗な有紀の文字を指でなぞった。

幾つかメールが入っていた。

映子からは、体力の回復具合にもよりますけど、再入院の前に、時間が取れるようなら、一度会社に顔を出して貰えると助かるのだけれどと云う趣旨の伝言があった。

有紀との旅行までの4日間は、暇と言えば暇なわけだから、会社に顔を出すつもりではいたが、出社して欲しいと云う映子からの伝言の意味が、少し気になった。

次期後継者問題と云う噂で、社内に何らかの混乱が起きているのではないか、私は幾分危惧した。たしかに、株式は社長と私で90%の株を持っているのだが、他にも株主が居ることはいた。

社長が私を後継にすると云った噂が広がることで、会社を現実に動かしている組織内から、或いは10%の株主から、異論が出ても不思議ではなかった。

社長の独裁的人事の噂が、寝た子を起した可能性もあった。思いもよらない噂で、社内が混乱するのも問題だったし、その渦中に、自分の意志に関わらず巻き込まれて行くのも、愉しい話ではなかった。

あくまで、根拠のない噂なのだが、私は、三山商事の社員でも、幹部でも、社長でもない自分を思い描いた。

たしかに、竹村の遺産を相続した結果、大株主になっただけで、300人以上の社員を擁す組織の頂点に立つ資格があるとは思えなかった。人間的軋轢を考えたら、避けて通りたい話だった。

自分の担当のプロジェクトを成功させる愉しみは知っていたが、会社を引っ張ってゆくと云う業務に、さして魅力を感じていなかった。

現に、私の目の前には、白血病と云う病が壁を作り、人生に待ったをかけているわけだし、治療が完治しても要観察な身体の持ち主になるわけで、健常な人間ではない事実もあった。社長業が、想像以上の激務であることは、映子さんから、詳細にレクチャーを受けていた。

また、“竹村ゆき”という乳飲み子の母親でもあるわけなのだから。

その為に取られる時間がどの程度のものか、想像も出来なかった。しかし、考えるまでもなく、時間的に彼女の為に費やさなければならない時間が生まれるのは当然だった。

この二つの出来事だけで、私は充分に多忙になるわけで、三山商事の社員としての仕事を両立できるのかな、と云う疑問を持つのが自然なくらいなのに、その上、次期社長候補として、組織の中に身を置くことは、あまりにも乱暴すぎると思った。

社長にも、映子にも、私の意志を充分伝える機会はなかったが、流れに任せて良い問題ではなさそうだった。

ただ、噂の段階で、その噂を根拠に“私には、その気はありません”と三山周治に宣言するのも憚られた。
つづく

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終着駅423


第423章

私は、パソコンを開き、電話の中で、話している、箱根宮ノ下の旅館を検索した。

谷底に流れる渓流に沿って、二軒の宿があった。この二軒の宿とも、来年の夏には閉館になると云う話をしていたが、これだけ自然に寄り添うかたちで存在した宿が消えていくのは惜しいなと云う印象を、先ず感じた。

二軒とも同時にやめるということは、営業不振が続いているのか、自然のロケーションが、災害時に避難の手段がないとか、行政側の厳しい指導があるのかもしれない。

私は、そんな感想を持ちながら、谷底までロープウェイで降りていく、ロマンを掻き立てる宿のサイトを眺めていた。

きっと、宿自体の耐用年数が過ぎ、建て替えを余儀なくされたのだろう。そして、建て替えに要する費用に愕然として、営業の継続を断念したのだろうか、そんなことを頭に浮かべながら、宿のサイトを見ていた。

離れで、専用の露天風呂があるのは、T旅館だけだった。格式は、もう一つの宿の方が上のようだったが、静けさを求める今回の有紀との旅に格式は不要だった。

宮ノ下のロープウェイで渓谷の下に降りる宿は二つだった。たしか、松本清張が宿泊して執筆した『蒼い描点』の舞台になっているロープウェイで降りる宿だったが、残念ながら、実際に宿泊したのは、もう一つの方の宿のようだった。

この宿がある早川渓谷を確認してみると、山梨の方にも同じ名前の渓谷があった。“早川”などと云うネーミングは、誰でも思いつきそうなもので、いくぶん陳腐だなと思ったが、それは私の身勝手な解釈でもあった。

私たちが泊まる予定の部屋は離れだというのだから、T旅館のサイトを見る限り、一部屋しかなかった。

サイトの紹介では、早川渓谷ではなく、早川の宮ノ下渓谷と特定していた。宮ノ下渓谷の方が断然ネーミングが良いので、私は堂ヶ島温泉と宮ノ下渓谷と云う名前をインプットした。

残念ながら、旅館の外観は、お世辞にも風格があるとか、風情があると云った褒め言葉のそぐわない宿だった。少し、ガッカリな気分で、ページを捲って行った。

ロープウェイを降りてから1万坪の庭園が続くとなっているが、まさか、その庭園を突っ切らないと、旅館に到達できない?そんなことはないのだろう。

正直、それほど自然に興味はない。

離れで、専用の露天風呂がついている宿であることがすべてだった。3泊もするほど魅力的な宿であるかどうか、どうにも判断がつきにくかった。ただ、専用露天風呂の写真を見る限り、鄙びた風情が、何とも言えない日本情緒を醸していた。

『えっ、食事がイマイチなのか。う~ん、それは悲しいけど、ロケーション主体で選んだ宿と考える手もあるから、やはり、頼んで。……。』

『姉さんの体調が戻ったら、快気祝いで、アンタの方に泊まりに行くから。
……。
えっ、三人目の子供妊娠したの、おめでとう。
……。
私、結婚のけの字と云うか、男っ気そのものの影も形もございません。
……。
ふふふ、そう、昔の私は泡のように消えたのよ。でも、演劇が豊かな時間を沢山提供してくれるからね、特に、問題はないかな。
……。
そうね、歳も歳だから、一人くらい産んでみた気持ちはあるよ。今回の姉の出産を知って、余計、そう云う気分にはなっているかもね。
……。
もう恋愛はいいかな、そう云う面倒なの省いて、気がついたら妊娠して、目が覚めたら子供を産んでいた、そう云うのが理想だけど、それは劇中の話だから、結局産まずに一生を終えるのかもよ。
……。
人工授精?そうね、でも、どこの馬の骨か判らないのも、気味が悪いんじゃないかな。
……。
ウン、判った。また電話で知らせて、無理しなく良いからね、じゃあね』

「あのさ、その宿の食事がイマイチなんだって、どうしよう?」有紀は、電話を終え、ガッカリした顔で話した。

「私は、気にしないよ。腐ったものでも出てこない限り」

「まあ、谷の中に一日中いるのも芸がないから、日中は上に昇って、たらふく食べに行けるしね」

「そうか、富士屋ホテルも比較的近いから、あの周辺に、そこそこ美味しいお店色々あった筈だから。結婚してからは旅行どころじゃなかったけど、昔、竹村が箱根をお気に入りで、随分連れて行って貰ってたから、行けば、美味しかったお店、何となく思い出せるはずだから……」

「いわゆる、不倫旅行をしていたわけね」

「不倫旅行か、随分古めかしい言葉じゃない?」

「そうかな?いま時は何て言うんだろう?」

「今どき?……、やっぱり、不倫旅行かな。陳腐な響きだけど、それなりに厭らしさがあって良いのかな?」

「この世には男と女しかいないんだから、自然の成り行き上、そうなるのは当たり前なんだろうね。それが、咎められる世界であることの方が変なのかも?」

「そうね、不倫の倫って、倫理の倫だろうから、まあ、足枷のようなものだよね」

「倫理とか道徳なんて、どっちにしても、支配者のご都合で作られたものなんだろうから……」

その夜は、有紀とそんな話をしながら、静かな眠りに就いた。
つづく

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終着駅422


第422章

久しぶりで、私たちは、神楽坂のマンションに落ち着いていた。

有紀が初めに提案した旅の行き先は、河口湖だった。我々の住んでいる街と中央高速は繋がりが良いので、一番気軽に乗れる高速道だった。

しかし、河口湖を中心にある幾つかの湖を地図で確認してみると、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の名前が目に入った。

精進湖と本栖湖から、鳴沢村一帯に拡がっているのが青木ヶ原だと気づいた途端、私の心の中を冷たい空気が吹き抜けた。

「駄目よ、河口湖方面は嫌、伊豆とかにしようよ」

「嫌か~。残念だな、友達の旅館があるから、ピッタシだったのに……」

「有紀、河口湖の近くから、青木ヶ原の樹海に入れるの知っていたの?」

「えっ!樹海って、あんなひらけた所から、入れるの?」

「正確には、精進湖と本栖湖から入るんだけどね。だから、二人で、そこに旅をするのは、時期尚早ってこと」私は断言した。

「そうなのか、ごめんなさい、私、樹海に入るのって、もっともっと奥の方からだとばかり思っていたの……」

「その点は、私も同罪だから気にしないで。いま、地図を縮小していったら、青木ヶ原って名前に出遭っただけだから……」

「知らないって怖いことをしてしまうものなのね……」

「そうだね。私も、地図で確認しなかったら、二つ返事でオッケー出していたから……」

「そうだね、私たちの思い出の場所として訪問するには、時期尚早か……。まさか、河口湖からすぐのところに、樹海が広がっているなんて、思いもしなかったよ。圭は今ごろ、どこにいるんだろうね?」

「そうね、桃源郷でニヤニヤしてるんじゃないの?」

「なんだか、姉さん、圭に冷たくなってない?」

「そうね、特別考えなくなった。ただ、それだけの理由だと思うけど、深く立ちどまって考えなくなった。冷たいようだけど、間違いなく、彼はいなくなったのだから・・・・・・。きっと、竹村がいなくなったときに、同時に、圭のことも、一緒に葬り去った?いや、自発的じゃないく、自然消滅したのかな?正直、あまりよくわからない」

「それにさ、なき人のこと考えている状況じゃなくなったしね・・・・・・。当たり前かもしれないね。つまらないこと聞いちゃったみたい・・・・・・」

「気にしなくて良いよ。それよりも、どこに行くか、それを決めないと」

「そうだった。彼女に断りの電話ついでに、ご推薦の宿があれば聞いてみようと」

有紀は、重苦しい空気を切り裂くように立ち上がると、電話をかけ始めた。

『ごめんね、折角最高の部屋押さえて貰ったのに。ただ、例の弟の件で、青木ヶ原が近いことに気づいちゃって……』

『そうなの、やはり、まだ完全に立ち直ってはいないから……』

『逆さまなら良いでしょうって?』

しばらく、相手の友人の話に聞き入っていた有紀が話し出した。

『そうか、湯本の方なら、気にしなくて済みそう』

有紀が、私の方に目を向けて、“問題ないよね”と問いかけてきた。私は、大きく首を縦にした。

『それじゃあ、悪いけど、そこ押さえて貰える……。あぁ、“はなれ”で専用露天風呂がついた部屋があるのね。それが良いわ……』

『料金、高くても平気だけど、幾らくらいかな?……4万円弱ね、大丈夫お願いするわ。……。3泊4日にして貰える。……。ロープウェーに乗るってことは、強羅とか芦ノ湖とかに出る時は、動かして貰えるのかしら。……。そう、だったら問題なし。宜しくね。……。えっ、来年の夏には閉店しちゃうんだ。なら、余計、話のネタにいいよね。……。舞台でも使えそうなロケーションかも。……。』

有紀と友人の話は、その後もかなり続いたが、話の流れから期待できそうな旅館だった。箱根と云う温泉地に魅力はないが、現在の私の環境では、適度な距離にあった。
つづく

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終着駅421


第421章

一週間は、あっという間に過ぎていった。退院しても構わないと櫻井先生の判断が出た。

今では、自分でも扱いかねるほど母乳が出るようになった。

これで、保育器の“竹村ゆき”に文句を言われる心配はなさそうだった。

看護師の話によると、胃に入れていたチューブは抜かれ、私が凍結保存している母乳を自分の力で飲むまで順調に育っていた。

退院、前日に、母乳を直接飲ませてみたが、痛いくらい吸いつく、竹村ゆきの姿に、私は、一仕事ピリオドが打たれたように、肩の荷が下りていた。

自分の身体の回復も、特に問題のある症状もないく、普通に暮らせると感じていた。

産科の検診は、十日後くらいに一度来てもらえればと云う程度の話だった。場合にっては、信濃町の方のクリニックで受けても、問題ないと云う話だった。

同じく、退院の前日に、村井先生の方の最終チェックを受けたが、癌細胞の増殖は止まっているので、3週間の体力回復モラトリアム期間は十分確保されていると確約された。

このまま、癌細胞の増殖が止まったまま、そう云うラッキーは起きないのか尋ねてみたが、残念ながら、そう云う事は絶対にないと、嬉しそうに断言された。

幾分、村井先生のことを小憎らしく思えたが、それが、患者の虚しい我がままだと云う事を、私は理解していた。

映子が数日前にお祝いに、病室を尋ねてきてくれた時、社内には次期社長が滝沢さんに違いないと云う噂で持ちきりだと云う情報がもたらされた。

人事と云うものが、このような形で決定していくことは、大いにあることだろうが、今回の噂は、フライングも甚だしいものだと思った。

映子も、私が社長の要望に何らの答えを出していないのを知っていたので、噂の発信源疑惑のある社長に、かなりきつく問い詰めたらしいのだが、社長は、流石の俺も、そこまで強引ではないと、強く否定していたそうだ。

まあ、現時点では、晴れて職場復帰できるかどうか判らない状態なので、どうでも良い話のようだったが、復帰できる頃に、その噂が消えている事を期待した。

映子も、何かにつけて、その噂を否定する材料を社内的に流して、噂の打ち消しはしてみるけど、自分自身は、それを望んでいるだけに、気持ち的には微妙な立場にいると、映子までが、その噂の虜になったような顔つきなのは不安を更に増幅した。

父と母も、揃って顔を出してくれた。父が一緒だと、母も幾分礼儀正しい女を装うので、物わかりの良い話ぶりだった。

引っ越しも無事終わり、その整理に追われているらしく、母の興味が部屋作りに向かっている事は、何とも有りがたいことだった。

そんなこんなな事があった末に、私は無事、自分の子供を保育器に残したまま、退院した。

幾分の後ろめたさを感じたが、たとえ我が子であっても、肉体は別物だし、きっと将来的には、心も別物。その辺のわきまえは、意図せずに、私の心にストンと落ちた。

ただし、こう云う心境を話せる相手は限定的だ。

世間とは、ステレオ合唱団みたいな面が多いので、不用意な発言は、これからも封印していないと、と自分に言い聞かせていた。
つづく

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終着駅420


第420章

翌日から、思った以上に慌ただしい日が続いた。看護師に導かれて、NICU室で、“竹村ゆき”にも出会った。数分のあいだ、抱くことも許されたし、乳首を口元にあてることも出来たが、彼女の現状では、儀式的に、そのような振舞いをしてみたに過ぎなかった。

しかし、これだけの設備と、スタッフの多さから、二十四時間完璧な監視体制にいる我が子は、必ず、ここからいずれは出てくると云う確信を得られたことはプラスだった。

ただ、到底、このような状況の“竹村ゆき”を母や父に見せる必要はないとも確信した。正直、他の人々にも、NICUで繋がれている彼女を、見せる必要はないと実感した。

母親である私自身も、次のフェーズの闘いが待っているのだから、我が子のためだと云う理由で情緒的に振る舞う必要はないとも思った。

“竹村ゆき”は、彼女の持ち合わせた生命力で、あの箱から脱出すれば良い。

私も、次の箱の中で、彼女同様に闘い、晴れて二人が再開する日まで、母子ともども、命と立ち向かう時間なのだと、妙にサバサバした気分だった。

私の感覚は、一般的感情とは違っているのだろうと思ったが、誰もかれもが、同じ感情を抱えて生きる必要はない。

状況の違いによっては、湧き上がる感情が、一般的でなくても、誰から咎められるものではなかった。

三時過ぎに金子弁護士が病室を訪れた。自分の遺言書と吉祥寺の家の解体に関する手続き書類一式に自署捺印した。

「事務所の連中と、お祝いはどうしようか考えたのですが、竹村さんに、お祝いのお金を包むのも芸がないし、食べ物やお花もどんなものかってね。散々考えた挙句、手ぶらで来てしまいましたが、全員、貴女の出産を祝っていました。いずれ、元気になられたら、大祝勝会を催そうなんて話になっていますので、これからも頑張ってください」

金子弁護士は、カバンに書類を収めながら、部屋を見回していた。

「癌の撲滅キャンペーンの時は、担当の科が変るんですよね。そうなると、この部屋も変わるわけですね」

「えぇ、この部屋に入院していて、嬉しいことはシャワーが使えることくらいで、特別嬉しくもなんともありませんし、抗がん剤治療は無菌室でするんだと思いますから……」

「そう云うことなんでしょうね。無菌室のような設備が必要でしょうから。それにしても、希望通りのペースで事は進んでいますね。数か月か半年後には、この遺言書も一旦不要になると良いですね」

「えぇ、私も、それを望んでいます。このまま、この世とおさらばは、チョッと、幾らなんでもって気になりますから」私は思わず微笑んだ。

「たしかに、冗談じゃないって思っちゃいますよね。理不尽なことってのは、世間には沢山転がっていますけどね、奥さんのような方に、起きると云うのは、思いもやらなかったですから……」

「私のような人には起きないって?」

「あぁ表現が悪かったかもしれませんが、世間でよく言うじゃありませんか、不幸な星の下とか。そう云う意味合いで、まったく無縁な人のように思っていたものですから。おそらく、これは、僕の主観が入り込んだ感想かもしれないのですけど……」

「いえ、私も、同じようなこと考えていました。正確なターニングポイントと断定は出来ないのですけど、竹村と再会した時に、私の人生に、何らかの転機が訪れたのかもなって、何度も思いましたから……」

「竹村氏が、疫病神になっちゃいましたかね」

「その判断は、現時点で留保ですね」私は、他人事のように判断して、笑って答えた。

「そう云うことになりますね、現状は。運命が吉なのか、凶なのか、その両面を抱えた状況が準備された、そう云うことになるわけですね」

「えぇ、そう云うことです。吉凶の線上に立たされているわけですけど、現状は、吉の方が幾分優勢です。これから、残された凶事の元を叩きのめす、その闘いだと理解しているんですよ。理屈上、考えられるベストな環境は用意されているので、後は、治療の苦痛に、私が堪える分しか残っていないと……」

「強いな。貴女のような患者だったり、依頼人ばかりだったら、医者も弁護士も、随分と楽な仕事なんですけど、現実は、多くが逆さまですから……」

そんな話をしているところに、櫻井先生が入ってきた。私は、必要があるかどうか判らなかったが、二人を紹介した。互いに、なぜ今、俺は名刺の交換をしているのか意味が判らずに、ロボットのようにギクシャクと名刺交換をしていた。

その理由を、有紀は尤もらしい顔で、お互いにライバル同士になるなってテレパシーの火花が散ったのよと簡単に解釈してくれた。
つづく

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プロフィール

鮎川かりん

Author:鮎川かりん
小説家志望、28歳の女子です。現在は都内でOLしています。出来ることなら、34歳までに小説家になりたい!可能性が目茶少ないの分ってっているのですけど、挑戦してみます。もう、社内では、プチお局と呼ばれていますけど…。売れっ子作家になりたい(笑)半分冗談、半分本気です。
初めての官能小説への挑戦ですけど、頑張ってみます。是非応援よろしくお願いします。

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