第420章翌日から、思った以上に慌ただしい日が続いた。看護師に導かれて、NICU室で、“竹村ゆき”にも出会った。数分のあいだ、抱くことも許されたし、乳首を口元にあてることも出来たが、彼女の現状では、儀式的に、そのような振舞いをしてみたに過ぎなかった。
しかし、これだけの設備と、スタッフの多さから、二十四時間完璧な監視体制にいる我が子は、必ず、ここからいずれは出てくると云う確信を得られたことはプラスだった。
ただ、到底、このような状況の“竹村ゆき”を母や父に見せる必要はないとも確信した。正直、他の人々にも、NICUで繋がれている彼女を、見せる必要はないと実感した。
母親である私自身も、次のフェーズの闘いが待っているのだから、我が子のためだと云う理由で情緒的に振る舞う必要はないとも思った。
“竹村ゆき”は、彼女の持ち合わせた生命力で、あの箱から脱出すれば良い。
私も、次の箱の中で、彼女同様に闘い、晴れて二人が再開する日まで、母子ともども、命と立ち向かう時間なのだと、妙にサバサバした気分だった。
私の感覚は、一般的感情とは違っているのだろうと思ったが、誰もかれもが、同じ感情を抱えて生きる必要はない。
状況の違いによっては、湧き上がる感情が、一般的でなくても、誰から咎められるものではなかった。
三時過ぎに金子弁護士が病室を訪れた。自分の遺言書と吉祥寺の家の解体に関する手続き書類一式に自署捺印した。
「事務所の連中と、お祝いはどうしようか考えたのですが、竹村さんに、お祝いのお金を包むのも芸がないし、食べ物やお花もどんなものかってね。散々考えた挙句、手ぶらで来てしまいましたが、全員、貴女の出産を祝っていました。いずれ、元気になられたら、大祝勝会を催そうなんて話になっていますので、これからも頑張ってください」
金子弁護士は、カバンに書類を収めながら、部屋を見回していた。
「癌の撲滅キャンペーンの時は、担当の科が変るんですよね。そうなると、この部屋も変わるわけですね」
「えぇ、この部屋に入院していて、嬉しいことはシャワーが使えることくらいで、特別嬉しくもなんともありませんし、抗がん剤治療は無菌室でするんだと思いますから……」
「そう云うことなんでしょうね。無菌室のような設備が必要でしょうから。それにしても、希望通りのペースで事は進んでいますね。数か月か半年後には、この遺言書も一旦不要になると良いですね」
「えぇ、私も、それを望んでいます。このまま、この世とおさらばは、チョッと、幾らなんでもって気になりますから」私は思わず微笑んだ。
「たしかに、冗談じゃないって思っちゃいますよね。理不尽なことってのは、世間には沢山転がっていますけどね、奥さんのような方に、起きると云うのは、思いもやらなかったですから……」
「私のような人には起きないって?」
「あぁ表現が悪かったかもしれませんが、世間でよく言うじゃありませんか、不幸な星の下とか。そう云う意味合いで、まったく無縁な人のように思っていたものですから。おそらく、これは、僕の主観が入り込んだ感想かもしれないのですけど……」
「いえ、私も、同じようなこと考えていました。正確なターニングポイントと断定は出来ないのですけど、竹村と再会した時に、私の人生に、何らかの転機が訪れたのかもなって、何度も思いましたから……」
「竹村氏が、疫病神になっちゃいましたかね」
「その判断は、現時点で留保ですね」私は、他人事のように判断して、笑って答えた。
「そう云うことになりますね、現状は。運命が吉なのか、凶なのか、その両面を抱えた状況が準備された、そう云うことになるわけですね」
「えぇ、そう云うことです。吉凶の線上に立たされているわけですけど、現状は、吉の方が幾分優勢です。これから、残された凶事の元を叩きのめす、その闘いだと理解しているんですよ。理屈上、考えられるベストな環境は用意されているので、後は、治療の苦痛に、私が堪える分しか残っていないと……」
「強いな。貴女のような患者だったり、依頼人ばかりだったら、医者も弁護士も、随分と楽な仕事なんですけど、現実は、多くが逆さまですから……」
そんな話をしているところに、櫻井先生が入ってきた。私は、必要があるかどうか判らなかったが、二人を紹介した。互いに、なぜ今、俺は名刺の交換をしているのか意味が判らずに、ロボットのようにギクシャクと名刺交換をしていた。
その理由を、有紀は尤もらしい顔で、お互いにライバル同士になるなってテレパシーの火花が散ったのよと簡単に解釈してくれた。
つづく
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