第427章両親のマンションの住み心地は快適だった。私の部屋は10畳近い広さで、ベビーベッドまで用意されていた。
この部屋の状況を、母の優しさと捉えるか、嫌みと捉えるか、私の心の問題だと、あっさり片づけた。
平穏な日常であれば、母の念入りな準備を、色々と詮索するところだったろうが、気づかなかったような顔で、翌日、昼近く、高円寺のマンションを出た。
会社の近くでタクシーから降りた私は、映子の携帯を鳴らした。映子は直ぐに出た。
「いま、どこですか?」
「会社の近くなんだけど……」
「いま、社長はいないと思うよ。いない方が良いのか、居た方が良いのか判らないんだけど……」
「そうね、いらっしゃれば、ご挨拶したいし、居なくても、取りあえず企画営業部と秘書室に顔を出しておくのが、筋かなって……」
そんな会話をしながら、私の足は確実に会社のビルの方に向かっていた。
企画営業部の社員の応対に、特別の違和感はなかった。口々におめでとうと云う言葉と、治療頑張っていと云う言葉が交錯した。
雰囲気が変わったのは秘書室に顔を出してからだった。取締役である秘書室長と並んで、私のデスクがあった。
そもそも、誰がこう云う並べ方をしたのか知りようもなかったが、まず違和感があった。仮に、私が、秘書室長の後釜だとしても、このデスクの並びは、現秘書室長に失礼だった。
ただ、今日の時点で、私が、それを口にするのは不適切だった。まだ、秘書室と云う部署のスタッフとして認知されていない私が口を出すべきではなかった。
それでも、全員が大人だから、通り一遍の挨拶は済ませた。そして、籾井室長の誘いに乗って、私たちは隔離された応接室の一つに入った。
「単刀直入な話なんですけどね、私と滝沢さんの、重要事項の引継ぎ問題で、実は頭を悩ましているんですよ。はじめは、こう云う人事を聞くまでは、次長に引き継ごうと思っていたのですけど、滝沢さんが来るのなら、貴女に引継ぐのが当然だと思うものですから、悩んでいましてね」
「その引継ぐ情報と云うのは、結構な機密事項なのですか?」
「何でもないのが大半ですが、明らかに、企業機密だなと云う類も、それ相当あるんですよ。それで、治療直前に引継ぎも変ですし、滝沢さんが正式に出社してからと思うのですけど、私は、6月の株主総会で定年退職ですから、それまでに、滝沢さんが出社していただければ、間に会うのですが……」
「たしかに、問題ですね。早ければ、4月か5月には退院出来るだろうし、出社も状況を見ながらだいじょぶだと思うんですけど……」
「しかし、治療ですからね。完全である必要が絶対条件ですからね、中途半端もいけない。つまり、不確定な部分をどのように埋めるべきか、その点で悩んでいるわけです。さり気なく、社長にはお聞きしたのですが、“なに、滝沢君は3月には、もう出社しているに違いない、気にしなくて大丈夫だ”そう言ったっきり、もう話さなくて良いぞってお顔ですからね。私としても……」
「そうですか。私も、今回の突然の人事に面食らっている一人なんですよね。わかりました。どうなるか判りませんけど、直接、社長の方に確認してみます。籾井さんとの引継ぎ問題もありますし、その他にもお聞きしたいことが、私にもありますから、直接確認するのが一番ですから……」
「そうして貰えると助かります」
「今日は、社長のスケジュールだと、帰社の時間とかお判りですか?」
「もう、まもなく帰ってくる予定です。あぁ、噂をすればですね、お帰りですよ」
秘書室から、“滝沢君が来ているらしいが、帰ったのかな”社長の大きな声が、隔離されている筈の応接まで聞こえてきた。
つづく
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