第431章保冷容器を顔見知りの看護師に渡し、私は“竹村ゆき”の保育器を覗きこんでいた。
「授乳してみますか?」突然、後ろから櫻井先生の声が聞こえた。
「ああ、吃驚した。先生、いらしたんですか?」
「いや、貴女が来たら、連絡して欲しいと言っておいたものですからね」櫻井先生は、なぜか、幾分頬を紅潮させていた。
「本当に良いんですか、保育器から出して?」
「えぇ、大丈夫です。おそらく、凄くパワフルな未熟児さんですから、ぐびぐび、お酒でも飲むように飲んでくれると思いますよ」意味不明だけど、櫻井先生は冗談を言ったつもりのようだった。
笑えそうもない冗談だったが、櫻井先生にしては、最高の冗談に違いないと、武士の情けではないが、笑顔を返した。
櫻井先生は、その返礼がとても嬉しかったらしく、いつも通りの童顔を取り戻し、授乳の後、診察室の方に来るように耳打ちして、足早に遠ざかった。
同じ職場の恋人同士が、逢引のサインでも交換しあったような雰囲気が一瞬漂ったが、看護師の声に促されて、私の身体は授乳室に吸い込まれた。
“竹村ゆき”は私の乳首に吸いついた。
私の可憐だった乳首は黒ずみ、取って付けたように大きく膨れていた。その突起に、“ゆき”は容赦なく吸いつき、一心不乱に乳を飲みこんでいた。
時おり、小鼻で大きく息を整え、貪欲な食欲をみせていた。左の乳首は幾ら吸われても痛くなかった。
いや、幾分気持ちが好かったが、右の乳首は乳の出が悪いのだろうか、“ゆき”は苛立っているのか、かなり乱暴に、私の乳首に吸いついた。殆ど噛むに近い暴力性があった。
竹村家の跡継ぎとしては頼もしい限りだが、乳首を吸われる私の身になると、いささか迷惑ものだった。
授乳時に、最も幸福感を感じると、多くに人達の言葉だったが、私には、その気持ちは浮かんでこなかった。
きっと、母親向きではないのだろう。何もかもいっしょくたにする錯乱した愛情がないと、育児は無理だと書いていた作家がいたが、私は思わず、その作家に一票を投じる気になった。ただ、俄かに、作家の名前は出てこなかった。
「さあ、時間だから、これでオシマイね」不十分な表情をしている“竹村ゆき”を看護師に渡し、NICU室をあとにした。
その足で、櫻井先生の診察室に足早に向かうのは、どこか気が引けた。
時計はまだ3時を少し回っただけだった。
我が子の授乳をそこそこに、愛人の待つ診察室に駆け込む女は演じたくなかった。
いや、そんな風に、誰かが見つめているようで、あらぬ噂は避けたかった。
このまま診察室に駆け込むと、櫻井先生の指に愛撫されるために、診察を受けようとする自分がいるように思えた。自分一人の想像に過ぎないが、そのように感じてしまった以上、その感覚を大切にしておきたかった。
私は、まっすぐ歩けば櫻井先生の診察室に辿りつく通路を左に折れ、エレベーターに乗り込み、B1のボタンを押した。
食堂に行って、つまらぬ妄想から逃れなければと、なぜか思った。
いそいそと、診察室に入ってきたと思われたくなかったのか、その時の心境は、自分でもよく判らなかった。
つづく
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