第16章―2
あと一時間で退社の時間だった。きっと、また会社に電話を掛けてくるに違いなと思っていたが、肝心な答えを伝える電話はなく、時間が過ぎていった。
私は、こういう時には、早く連絡よこすものよ、と母に腹を立てたが、かなり身勝手な感情になっているのは自分だと思って苦笑いしてしまった。
「主任、お先に失礼します」数人の部下が散り散りに退社していった。部屋に残っているのは、私と、ひ弱なお局映子さんだけだった。
「そういえば、夏休みの日にち決めていないのは映子さんだけだけど、どうするの」私は思い出したように尋ねた。
「あぁ夏休みでしたね。あれって、休まないといけないのでしょうか」書類から目を離さず、映子が聞いてきた。
「いけないって事はないわ。でも、7、8月中に取らないと自然消滅してしまうだけよ。」私も部下の出来そこないの日報に目を向けながら答えた。
「行くところもないし、家は狭いし、子供はウルサイし、エアコンの調子は悪いし、お金にも余裕はないし。消滅するだけなら、消滅が良いのかと思います」
私は映子の返事を上の空で聞いていたが、ないない尽くしの人生か、と他人事ながら、気が重くなった。
「お子さんって幾つになったの?」話の成り行きで、興味はないが、私は尋ねた。
「8歳、小学2年なンですよ。もうウルサイし、あの男にそっくりなの、嫌になっちゃう」映子は、自分が産んだ子供であることを忌避するような口調で投げやりに語った。
「そう。何かの仕草が元ダンに似ていると、やはり腹が立つものなの」
「私の虫の居所にもよるンですけどね」映子は自嘲気味に独り言のように語った。
「そういうものなのね。離婚って、結構後を引くと云うか、難しいものね」
「子どもさえいなければ、もっとサッパリ忘れられるような気しますよ。元ダンの、つまらない仕草や口の利き方とかは、意外に忘れないけど、愛し合った時の記憶なんかは、あっという間に消えちゃうもの…」
「そうなんだ、それが好かったとか、悪かったとか、関係なしに」
「そんなものだと思いますよ。少なくとも、私はそうですね」
「そう、なんだか夫婦って虚しいみたい」
「さぁ、私の場合は失敗作だから、そう思うのかもしれないですけど。でも、肉体の記憶って、案外脆いものだと思います。つまらない仕草とか、全体にあったニオイとか、そう云うものは残るんですけどね……」
「なんだか、結婚したくなくなっちゃうわね」私が笑うと、映子も笑った。
「一度は、主任もしてみてくださいよ。ただ、絶対に、こいつで大丈夫って思うまで、子供はつくらないことだけは確かです」
「断言されたのでは、私も肝に銘じておくわ。私、帰るけど、映子さんは」私は映子との話に区切りをつけて、席を立った。
夜のとばりが落ちかけた車内は、まだかなり混んでいた。それでも、人と触れ合うほどじゃない電車は、かなり快適な乗り物だと思った。車窓に、吊革に腕を伸ばして佇む女がいた。当然、映っているのは私なのだけど、どこか他人のような感じで、その姿を捉えていた。
車窓に映っている女は何者に見えるのだろう。自分ではわかっているが、他人の目には、どんな女に見えているのだろう。まったく意味のないことに心を奪われ、次々と乗客は入れ替わった。
なぜ、こんなに乗客が入れ替わるの?私は初めて、ホームに停まっていた電車に乗り込んだのだが、各駅停車の電車に乗り込んでしまった事に気づいた。
どうかしている、自分が今いることに、初めて気づいた。やはり、美絵さんの、圭への疑問の答えが知りたい一心の自分がいることに、改めて気づいた。
しかし、それほど興味のあることではないと云う様子でいなければならないことも、理解していた。さっさと、その美絵さんの理由を連絡して寄越せばいいのに、こういう時は気の利かない母さん、私は八つ当たりな気分になっていた。
つづく
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