第485章私は、とっさに、有紀の想定を覆してやりたい欲望が生まれた。心からの反発心とも、少し違っていた。
ただ、三上商事から身を引いたことで生まれた、心の空白は、劇団の事務仕事では埋まらなかった。
その空白は、なにが何でも埋めなければと云う切迫感はなかった。
ただ、自己決定に拘りすぎた生き方を変えるには、流れに逆らわず、目の前に現れた餌に喰いつくのが一番容易いと思っていた。
「良いよ」私は、条件なしに、一言で答えた。
「えっ!いま姉さん、良いよって言ったよね?」
「言ったよ」
「冗談じゃなく、ほんとに、本当?」
「冗談で言えないでしょう。でも、条件はあるよ」
「条件って?」
「私の演技で、舞台が台無しになると不安があったら、絶対に出さないと、約束して欲しいの」
「その役は、セリフが少ないから、台無しになることはないけど、姉さんが舞台に上がった責任は、私が全面的に取るよ。でも、どうして、そんなに素直になったの?」
「その言い方って、まるで、私が素直じゃなかったみたいじゃないの。考え過ぎの傾向はあったけど・・・・・・」
「そこよ。そこが革命的違いなのよ。考えないと一歩も進まないと思っていた姉さんが、質問なしに、二つ返事って、それは、誰だって驚くよ。母さんなんて、気が狂うかも……」
有紀は、母の混乱する様を想像しているのか、にやにやと悪戯っぽく笑った。
「姉さんが、舞台に上がってくれるとなると、キャスティング変える必要が出てきそう。明後日から、稽古に入るんだけど、体調は大丈夫?」
「そんなことより、素人の私が突然舞台に立って、劇団内の問題って起きないの?」
「特別、起きないよ。全劇団員が、その金持ちの若き未亡人役を振られることに尻込みしていたから、きっと大歓迎だと思うよ」
「てことは、難しい役ってことじゃないの?」
「そうだよ。若くて、金持ちの未亡人以外には、とても厄介な役なの。でも、姉さんは、そのまんまでしょう?だから、いつも通りの姉さんが座っていれば良いのよ。そして、“さあ、どうかしら?”とか、“それって、どう云う意味かしら”とか、相手の役者に、長々と説明させる役柄だからね、楽ちんなのよ」
「楽ちんなら、誰もがやりたがるんじゃないの?」
「風格があればね。ただ若いだけじゃ駄目だし、若くありたいと、抵抗をしている女の人じゃダメなの。意識の中で、金持ちだと思っている人も駄目。
座っている、立ち上がる、それだけで、周りの人間をウロウロさせるオーラが必要なのね。だから、現在の劇団員に見当たらないの。劇団外の女優さんに、友情出演して貰おうか、考えていたところだったの」
有紀は、次の舞台の成功を信じているような顔つきになっていた。有紀の自信満々な顔つきを見れば見るほど、私の不安が具体的になってきた。
「あのね、本当に駄目だったら、無理されるのは嫌だよ。明後日からの稽古、数日すれば、駄目か、駄目じゃないか、一定の判定は出来るものなの?」
「出来るよ。というか、姉さんなら、絶対に大丈夫。まあ、セリフの言い回しとか、若干注文が入るかもしれないけど、十回も声に出してしまえば、良くなるよ。今の姉さんそのもので、充分なんだから」
有紀が、すべて解決と決めつけて、私を抱きしめた。私も、その力に応じる程度に、有紀を抱きしめたが、半信半疑の気持ちに変わりはなかった。
つづく
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