第486章“ゆき”同伴で稽古に入ることも可能だったが、田沢君のお母さんが快く、通い育児を引き受けてくれた。
基本的に、午前十時から午後五時まで、私の身は自由になった。土日を除く二週間、私の稽古に協力すると、嬉しそうに応じてくれた。
田沢奈津子さんの言い分だと、“竹村ゆき”に会いたくて、夢に見るくらいだったので、主人にも、”救われたねっ”て揶揄われたくらいです、とあけすけに、自分の事情まで暴露してくれた。
現金うんぬんも、いざとなると面倒になり、そのまま放置した。田沢奈津子さんが二階の部屋を覗き見するとも思えないし、まして、現金を持ち逃げする可能性は、彼女の境遇から考えられなかった。
私は、そんなことよりも、まともに声が出るものか、そのことで気持ちは一杯一杯だった。
家で、声出しを有紀に確認して貰った範囲では、オーケーが出ていたが、劇団の人達が一緒のところで、同じように声が出るか、そのことで頭は一杯になっていた。
私は、5回シナリオを読み返した。そして、自分を、若くして未亡人になった、謎の多い、女になり切ろうとしていた。
有紀から、表情は、能面のような方がいい。無機質で、感情が平坦な女であることを意識すれば、それだけで、役は務まるからとアドバイスを貰っていた。
高校の時、二年間ほど演劇部に所属していたので、舞台上での声の強弱に関しては、ある程度身についたものがあった。私が、リビングで演じる声を、有紀は二階に上がって聞いていた。
“姉さんの声って、想像以上に通るから、よく聞こえるよ”有紀が、私の演技をおだてても意味はないわけだから、私は、自信を確認していた。
出演者がまちまちの服装で舞台に上がっていた。私は、椅子に座っている時間の長い演技だったので、出ずっぱりだった。
その間、私は、相手の役者のセリフを聞く役目なのだが、常に横顔が観客から見える角度に椅子がセットされていたので、観客席の視線を強く意識する必要はなかった。
一回目の声出しの時に、一瞬声が上ずった自覚はあったが、駄目出しの声は掛からなかった。
二度目、よりも三度目。私は、気がつくと、全身で劇中に吸い込まれて行った。本当に、私自身が、舞台上の女であると云う自覚が湧いてきた。
上手く行っているのか、そこまで判断出来る筈もないが、私の部分でチェックは入らなかった。
有紀がお目こぼししたのか、その辺も判らなかった。
稽古は4時に終わった。終わって、床に腰を下ろし、コーラを飲んでいると、有紀が近づいてきて、首筋に手を当てがい、もみほぐしてながら、“グッドジョブ”と囁いた。
「私、これで帰って良いかしら?5時に田沢さんとバトンタッチしたいから」
「あぁそうだったね。うん、もう大丈夫。タクシーで帰るんでしょう?」
「そうするわ。まだ、完璧な体力じゃないし、頭がぼーっとしたままだから……」
「わかる。でも、まったく問題ないから、この調子でオッケーよ」有紀が、背中を数回叩いた。
タクシーに乗り込むと、一気に疲れが出てきた。気持ちが悪いようなことはなかったが、猛烈な睡魔に襲われた。
運転手さんに、吉祥寺の駅が近づいたら声をかけて下さい、と頼んで、目を閉じると、一瞬で眠りに就いていた。
つづく
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