第453章夕食もそこそこにして、私はメールをチェックしていた。
有紀からのメールには、見る見る育っていく“竹村ゆき”の写真が数枚添えられていた。
産まれた時の細く小さな命が、こんなにもなるのかと、生命力に驚くと同時に、田沢君のお母さんの献身的育児があることを忘れてはならないと、強く自分に言い聞かせた。
私は、田沢君のお母さんに、治療後初めてメールを入れた。
そして、感謝を告げると同時に、順調に行けば、後1カ月くらいで退院できるかもしれませんと、敢えて、楽観的文章を書き添えた。
父と映子さんからもメールが入っていたが、後から読むことにして、私は再び、トレイに残った卵焼きに箸を伸ばした。
その時、小さなノックの音と共に、櫻井先生が入ってきた。
透明のビニールカーテンを通して、柔和な櫻井先生の顔が緩んでいた。
小さく手を振っているので、私も、礼儀かなと思って、小さく手を振り返した。
「先週の非番に、お子さんに会いに行ってきましたよ。非常に良い状態でした。あのお母さんを選んだのは、ベストジャッジでしたよ」櫻井先生の声はインタフォーン越しだったが、ウキウキした声音になっていた。
「そうでしたか、わざわざ、ありがとうございます」私は、櫻井先生の過剰とも思える親切に、どのようなリアクションをすればいいのか、内心悩んでいた。
「おや?抗がん剤はやめたんですね?」櫻井先生は、点滴している薬剤のラベルをたしかめて、話しかけてきた。
「そうなんですか。私、何も聞かされていないものですから……」
「そうだったのか……」櫻井先生は、一瞬迷ったっようだ。
「良いでしょう。竹村さんは、知らなかったことにしてくださいよ。そうじゃないと、村井先生に、僕が叱られるから……」
「私と先生だけの秘密ですね」私は、緊張しながらも、笑みを作ることが出来た。
「おそらくですけど、地固め治療が終わった、そう云うことだと思いますよ。専門じゃないから、確定的ことは言えませんけどね。少なくとも、悪い方向じゃないのはたしかです。きっと、村井先生の方は、責任がありますから、ぬか歓びはさせたくなかったんじゃないかな。だから、あまり、説明しなかった……」
櫻井先生は、私の不安を察知したように、その塊の氷解に役立つ言葉を続けた。
「いま、僕が話しているのは、この病院の医者としてではなく、竹村さんの同志的立場で話をしているだけですから……」急に真顔で話し出す櫻井先生は可愛かった。
「了解しました。友達の情報くらいに解釈しておきますね」私は、何に自信を得たのか知らないが、余裕たっぷりに、お姉さんのような優しい気分で、櫻井先生に同意していた。
「それから、村井先生の方にもお話しておきますが、仮に、退院の日取りなどが決まったら、入院している間に、一度産科の方の診察に顔を出してください」
櫻井先生は、事務的報告に来たような顔に戻り、足早に病室を出ていった。
私は、みるみる前方の視野が拓けていく状況を実感していた。現金なもので、急にお腹まで空いてきた。
トレイに残っていた、夕食を全部平らげた。
考えてみれば、担当医である村井先生にしてみれば、不用意に、地固め治療の終了と、退院までのプロセスの話をする為に、確認作業を完璧にしておきたかったに相違なかった。
まさに、ぬか歓びさせることは出来ないし、今までの症例に比較して、1か月以上早く、癌細胞の根絶が起きたことへの疑念もあっただろうから、突然、無口になってしまったのかもしれなかった。
おそらく、私以上に、村井先生の方が、最終検査報告を緊張しながら待っているのかもしれなかった。
死と闘っていると云う、自分の立場が、如何にも崇高に思えてしまう錯覚の罠に、私は迷っていた自分を感じた。
そう、私は単に、癌細胞に冒された患者であり、村井先生は、それを治す医師だった。
崇高なのは、患者よりも、むしろ治療する医師の方なのに、患者の自分が、自分の命が掛かっていると云う理由で、崇高な地位についていると思ってしまった錯覚に、我ながら、感情の混乱を恥じた。
つづく
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