第57章 母親に、有紀の話をするのは億劫だったが、話さないわけにも行かなかった。
どう考えても、結婚が取りやめになったと云う話を、私がするのは間違いだったが、今さら、有紀にメールしても、まともな返事が返ってくる可能性も低かった。
案の定、母は軽いパニック状態になったが、最終的には、炊事を放棄し、頭痛薬を飲んで、ふて寝してしまった。これは彼女がパニックから逃れる時の手段で、特に心配なことではなかった。
母の炊事を引き継いだ私は、彼女が何を作ろうとしていたのか分からなかったが、酢豚と野菜スープを作った。圭が結婚して家を出ていたし、有紀も、今後自宅に帰ってくることは稀だろうから、三人家族になっていた。
ここ1年で、家族崩壊ではないが、5人家族だった我が家は、瞬時にして3人家族になっていた。このまま時間が過ぎていくと、私は、家付き舅・姑付きのいかず後家になりそうな感じだった。
老いた両親の介護に明け暮れる将来の自分の姿を思い浮かべながら、私は、意外に美味く出来た酢豚に舌鼓を打った。そして、二階への階段を上りながら、マンションを買って独立しようかと考えた。
マンションのローンを支払う能力はありそうだし、圭との逢瀬にも都合が良い。しかし、母がちょいちょい気軽に顔を出せる距離のマンションでは都合が悪い。圭が、部屋が遠すぎると言って、文句を言うとも思えない。2,30年後には、両親の介護問題が浮上するかもしれない。
急に、マンション購入と家を出る考えが、非常に正しい考えのように思えてきた。
圭との関係の継続が絶対的かどうか、自信は揺らいでいた。有紀を含めた3人の間に出来た奇妙な関係に馴染みかけた時に有紀の離脱は、残された二人の関係が、速攻で、元の鞘に戻るというものではなかった。
圭との関係が、どこか魂が抜けてしまったようなセックスになっていることが気がかりだった。
どちらかに、何らかの事情があるということではなく、二人の間に割り込んできた有紀の参加と離脱に、大いに影響を受けているのは間違いなかった。
その辺のところは、出来るだけ早く、話し合う必要があった。圭と話す分には、利害損得は殆どないので、奥歯に物の挟まった話をする必要はなかった。
しかし、と私は考えた。
圭との関係が家を出るきっかけではなかった。いかず後家のキャリアウーマンになることを避けるのが、そもそもだった。圭との逢瀬の場所の為にマンションを購入するわけではない。圭のことは分離して考えるべきだった。
がしかし、とまた考えた。マンションを買って家を出ても、いかず後家のキャリアウーマンには変わりがないと気づいた。いや、いかず後家と云うのは、家付きの未婚の娘に向けられた言葉じゃないのだろうか?私は、ググった。
【行かず後家とは、適齢期を過ぎても嫁に行かない女性を嘲う言葉。】
*江戸時代から使われている
後家とは夫に死なれ、再婚をせずに独身でいる女性のことである。つまり、行かず後家とは何歳になっても後家さんのように嫁に行かない女性のことで、そういった女性を嘲う言葉である。行かずだけでも適齢期を過ぎても嫁に行かない女性を意味するが、後家をつけることで更に嫌みが込められている。なお、関西の一部では婚約中に死別・生別し、後家のようにしている女性を行かず後家、単に何歳になっても結婚しない女性を嘲うときは行かずと使い分ける地域もある(ただし、年を追うごとにこうした使い分けはなくなってきている)。(日本語俗語辞典より)
なるほど、そういう事なら、私が家を出ようと出まいと、「いかず後家」なわけだけど、どこかに違和感がある。現在の世間一般では、いかず(行かず)の中には、家を出ていかない適齢期の娘と云うニアンスもあるような気がした。
そういえば、「処女」と云う言葉は、今では男性経験のない女とか、未体験の娘などを指すのだけれど、平安時代から長いこと、「家に処る(いる)娘」と云う意味だったのだから、時代とともに、「いかず後家」の意味も変わっているのだろう。
私は、自分のやっている行為が意味のないものだと知っていた。ただ、何かしていないと、心がくじけそうな心境だった。
冷静に考えれば、圭との関係を清算することは正しい行為であって、心がくじけるものではない筈なのに、やはり、挫けた。
圭が私の前から消えたからといって、人生が絶望的になることもなかった。理屈の上では、より正常になるわけだから、喜ぶべきなのだが、やはり、心は寂しかった。
有紀が参加した関係なんて、ほんの数回に過ぎない。その何倍も、圭と私の関係は積み重ねられているのだから、こんな程度で、易々と壊れる筈はないのに、壊れそうな予感があった。
その予感の根拠は具体的なものではない。ただ、圭と行為しているときに感じる物足りなさだった。
私が感じるのだから、おそらく、圭も何かを感じているに違いなかった。しかし、それを解決するために、圭と向き合って話をすれば、解決可能かというと、そういうものでもない気がしていた。
つづく
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