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第143章
敦美の心境を確認して、俺は落ち着きを失った。
彼女の、何も変わらないことが望みは、人間が生きていく上で、最も困難な望みだったからである。
人間が生きている以上、その人の生活、或いは、長い期間の人生に対して、前進や後退と云う現象はつきものであって、これらの影響から、人は逃れられない生き物だと知っていた。
つまり、敦美の望みは、必ず破綻すると云うことだった。
その破綻が、どう云うものなのか、現時点で想像することは困難だ。しかし、必ず“時間”というものが、彼女に破綻を告げるだろう。
ただ、彼女にとって、その望みの破綻が、必ずしも悲劇的なものであるとは限らない。より有益な破綻と云うこともある。
はっきりとしていることは、人間変わらないと云う命題は、最も難しい行為であるということだった。
そういう意味で、変らないでいることを望んでいる時空に存在する俺と云う存在は、最終的には無意味な存在だとも言えた。
俺自体は存在する。しかし、敦美と云う女にとって、俺と云う人間は、最終的に存在しなかったのと同じと云うことだ。
虚無的生き方を望む俺には、おあつらえ向きな話ではあるのだが、面と向かって考えると、かなり無力感をおぼえた。
敦美にとって、俺が刹那的存在であったと云うことは、俺にとっても、敦美は刹那的女であったと云うことにほかならない。
敦美から言わせるなら、変らぬ時空を望んでいるのだから、俺の存在も、変らぬものの一部だと主張するだろうが、俺の哲学とは相いれない考えだった。
この浮世離れした環境におかれている敦美という女が、実は平凡な女であるアンバランスが、俺の思考に狂いを与えていた。
逆に、世間ずれした環境に生きる寿美という女の方が、よほど浮世離れしているのは、皮肉だった。
「なにを考えてるの?」敦美の間延びした声が耳元から聞こえてきた。
「眠くなってた……」
「そう、じゃ寝ようか…」
「そうだね、少し寝かせて貰おうかな……」
「仕事が忙しいみたいね」
「多少ね。でも、あまり金になる仕事じゃないけどね」
「書く仕事って、そんなに儲からないの?」
「そうだね、儲けるためにする仕事じゃないかもしれないな」
「会社の方が儲かるの?」
「まぁ、書くよりは儲かるかな。ただ、ものを書くって仕事は、儲けることが第一目標じゃないから、仕方がないのかもね」
「そうなんだ。父なんかの仕事を見ている限り、仕事って、全部、お金儲けの為のものだと思っていたから……」
「商売は、だいたい儲けるためのものだから、その通りじゃないかな」
「じゃあ、貴方の仕事は違うわけ?」
「そうだね、少し違うかな」
「どんなふうに?」
答えるのが面倒だった。
俺は、敦美の問いに、答えを返さずに、一定の息づかいをした。
つづく