第92章車で、新宿を流しながら、久しぶりでルポライター時代にたむろしていた“ジャズバー静”に行ってみようと思いついた。
その店の由来“静”は、オーナーのおふくろさんの名前で、明治生まれの静さんが、オーナーにジャズの愉しみを教えてくれたから云々と云う記憶があった。
たしかに、ジャズと静という店名は、相性の良い名前だとは思わなかった。しかし、不条理に敏感なひねくれ者が多い物書きやトップ屋連中には、相性のいい店だったのだろう。
この店に最後に来たのはいつだったろう。
俺は地下に向かう階段を下りながら考えていた。たしか、5年は来ていない気がした。目まぐるしく変貌してゆく新宿と云う街を思うと、いま下りている階段があることも、入り口に見慣れた看板があることも、奇跡的なのかもしれないと、身体をぶつけて重い扉を押した。
重い扉をひらいた隙間から重厚なベースのリズムが、堰を切ったように流れ出てきた。
俺は慌てて扉を閉じた。
なぜか新宿の街に静のジャズを流してしまうのが勿体ない気分だった。否、隠れ屋を他人に知られたくない気持ちだったのかもしれない。
煙草の煙で燻されているにしては白っぽい漆喰風の壁と厚塗りの黒い椅子とテーブルも昔のままだった。
壁際のふたり席に座ってマンデリンを頼んだ。今どきにしては珍しく、テーブルの上には灰皿が当然のように置いてあった。
時代の流れに抗っている心意気がジャズとマッチしていた。そして、愛煙家を優しく包摂しているオーナーの心意気にも包摂を感じた。
カウンターの奥に、オーナーの奥さんの顔が覗いていた。特に親しく話をした記憶はないので、声を掛けようとは思わなかった。
「あいば先輩」背中を叩かれて振り向いた。
「いやぁ……」
そう応えたものの、その若い男が誰であるか、にわかに判断出来ずにいた。
「研報社の上野です。浅井の後輩で、よく新宿取材の時お世話になりました」
「あぁ、あの時の新入社員だった人か。そうでしたか、お見逸れしてしまって、申し訳ない」
「いや~、あれって十年前ですから、当然ですよ。でも、随分、あいばさんからは取材のテクニック教えて貰いましたよ。いまでも、忠実に、あの時のテクニック使わせて貰っています」
「俺って、そんなこと君に教えたのか?」
「ええ、結構怒られながらでしたけど、神髄を語って貰えましたよ。浅井先輩が、アイツにしては珍しい親切だ。よく聞いておくんだな、そんな風に言われましたよ」
「そうか、よほど虫の居所が良かったのかな。それとも、君に見込みがありそうだったからかもね……」
「ご期待に沿えているか、その辺は分りませんが、事件部門の責任者させて貰っています。ですから、多少は見込みがあったのだと、奇妙ですが自負しています」
上野は、充分に自信満々な笑顔を見せていた。しかし、鼻に掛けるような態度ではなく、俺の見込みが正しかったことの証明として自分がいると話しているのだから、間接的には、俺を褒めていた。
「浅井さんはお元気ですか」
「浅井さんは、五年ほど前に癌で亡くなりました」
「そう……、亡くなられたのか、病気で」
「えぇ、肝臓がんでした」
「そうか、浅井さんらしい病気だな。半端な量じゃなかったからね」
「えぇ、奥さんに離婚されるレベルでしたから」
「そうか、あの奥さんとも離婚したのか。料理の上手な奥さんだったのにね。で、お嬢さんたちは」
「お二人とも、結婚してましたからね、まあ早目の熟年離婚のようなものですね」
「そう、奥さんは、いまどうしているの」
「吉祥寺でカフェバーのようなものをやっていますよ。僕も、月に一回くらい顔を出しています」
「そうなのか、ついでのある時に、俺も顔出してみるよ。何てお店」
「ASAって書いて、あさです」
「ふ~ん、意味深だね」
「えぇ、離婚したのに、ですね。ところで、あいばさんは取材中ですか」
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