第440章土曜日、有紀と“ゆき”を伴って、高円寺のマンションに我々は落ち着いた。
“ゆき”を伴ったお陰で、日ごろの静かな反目は表面化することはなかった。
子は鎹(かすがい)と言われるが、夫婦間だけではなく、親子関係や家族関係にも通用する言葉のようだった。
有紀は、余所行きの顔を演じていたが、それほど意識的な感じは受けなかった。
母も、“ゆき”を相手に話すばかりで、我々への関心は、殆ど示さなかった。
父もあれっと云う表情で、母を観察していたようだが、悪い方向に向かっていないことを確認して、ゆっくりと杯をかたむけていた。
赤ちゃんが主役だからと云うことで、夕食はお寿司だったので、特別後片づけもなく、ゆったりとした時間が流れた。
母が虎屋の羊羹を買ってきたからと云ってキッチンに立った。有紀がすかさず、“じゃあ私、お茶を入れるから”と母と並んでキッチンに立った。
私は、嵐の前の静けさを感じたが、何事も起きず、四人は、思いもやらない形で、食後のひと時を、羊羹に舌鼓を打ちながら過ごしていた。
「それで、涼の治療はいつから始まるんだ」沈黙に堪えられなくなったのか、父が口火を切った。
「月曜日から入院はするけど、治療を始めるのは、数日くらい後じゃないのかな?」
「そうか、我々は治癒する前提でここに居るが、万が一ってことも、まったく考えておかないのも馬鹿げていると思うんだが……」
「そうね、それは一応考えてあるの。正しい選択とか、好ましい選択かどうか判らないけど、弁護士の先生の方に遺言書みたいなものは預けてあるから……。いざという時は、ここに居る三人で、その遺言書を読んでもらいたいの……」
「そうか、そこまで準備してあるのなら、余計な心配だな。まあ、あり得ない話だとは思うが、ゼロではないことだからな……」
「お父さん、そう云う話はやめてくださいな、涼が死ぬわけないじゃないですか。圭が死んで、涼まで死ぬなんて、そんなことはあり得ませんよ。私が死ぬと云うのなら、そりゃ分りますけどね」母は、断言した。
「たしかに、その通りだ。涼が死ぬくらいなら、俺の方が先にくたばる筈だからな、ハハハ……」父は、話を区切るために、母に同調していた。
常に我が家は、こうだった。物事の真実に迫るより、一時の平和の為に、家庭的な繕いが上手な家庭だった。
しかし、そうでもしなければ、家庭不和などは、日々起きる環境があるわけで、正しい家族の在り方なのだろうが、どこか欺瞞があった。いや、世の中、欺瞞を認めて初めて成り立つものかもしれないなと思いながら、最後の羊羹を味わっていた。
「それで、治療ってのは、順調に行くと何カ月くらい掛かるものなのかしら?」母が、これから大人の時間だと言わんばかりの口ぶりで話し出した。
危険信号が鳴り出した。そもそも論は、彼女のお家芸だった。
教条的に、本質を突くのが好きなのは、教師独特なのだろうが、私は苦手だった。有紀は、それ以上に苦手というか、その部分を憎んでいた。
「ケースバイケースだから、何カ月とか、判らなわよ。少なくとも3カ月以上だし、10カ月掛かる人もいるようだから……」
「あの病気の治療は、人それぞれらしいからな。早い治癒が好ましいが、これだけは、神のみぞ知ると云うとだよ、母さん」父が、話題を終わらせようと、口を挟んだ。
「それはそうでしょうけど、貴女の治療が終わり、健康を取り戻して以降も、他人様に赤ちゃんを預けておくってのは、どうなのかしら?」母も簡単に引っ込む気はないようだった。
私は、この際、断定的言質を話してしまった方が良いと考えた。折角の一家団欒に水を差すことになりそうだったが、尾を引く方が最悪だった。
つづく
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