第99章「そうか、これ実印だったのか」
俺は、テーブルにさりげなく置かれたコロリとした判子入れを転がしながらつぶやいた。
「そうよ。でも大丈夫、何かの売買や公式な書類に捺したわけじゃないから、どうでも良いものなの」
「本当に大丈夫なのかな」
「大丈夫よ。父の教育のお蔭で、危険な書類と、そうじゃない書類を区別する能力は鍛えられていますから」
「そうか、だったら良いんだけど……」
「自分だけ、ハンバーグ頼んだの」
敦美は、俺がもぐもぐハンバーグを食べだした口元を咎めるように睨んだ。
「食欲あるんなら、何か食べなよ。監禁で、食欲どころじゃないのかなって思ってさ」
「貴方は、私が監禁されているのに、食欲があったわけ」敦美は、半分笑いを含んだ目で、俺を睨んだ。
「いや、今夜はホテルに戻ってから、夜食が取れる雰囲気はないかもって思ってさ」俺も、挑戦的な目を返した。
「今夜は泊まれるってことよね。だったら、私はステーキにしてみよう」
敦美はすかさずテーブルの上のブザーを押した。
「大金持ちが、ファミレスのステーキ頼むってのも、奇妙な感じだね」
「あら、あのお金は父のものだから、自分が金持ちなんて意識はゼロなの。きっと、これからも、その辺の気持ちって変らないんじゃないのかな」
「そう、それは感心な心がけだけど、俺を雇う話では、結構気前の良いこと言っていたけどね」
「あぁ、あれは必要経費よ。これからの私の生き方を含めて、貴方からのアドバイスを必要とするはずなのよ。バカらしいことまで質問しても、嫌にならない支払いが必要だって、直感的に思ったの」
「単なるアドバイスくらいなら、只でも応える用意はあったけどね」
「そうね、男と女の関係が良好な間は問題なくても、駄目になることもあるでしょう。そう云う時でも、貴方の知識は欲しかった、そういう感じかな、直感だけど、父も、弁護士とか会計士には、相当の報酬を払っていたもの。カエルの子はカエルよね」
そんな話をしている内に、敦美のステーキがテーブルの上に置かれた。ジュージュー鉄板の音が食欲をそそった。無論、実際に、そのステーキが美味しいということとは無関係な鉄板のニオイだった。
「あら、思った以上に美味しそうな匂い」敦美は早速ナイフを切りこんだ。
「あら、やっぱり硬いわね」
「そうだろうね。だから、俺はハンバーグにしたんだよ。ハンバーグが硬いって話は聞いたことがないからね」
美味しそうなステーキにナイフを突き立てて苦戦している敦美を尻目に、ひと口だけ残ったハンバーグの欠片を口に運んだ。
敦美は、その口元を睨みつけながら、テーブルのブザーを押した。
まさかファミレスのステーキが硬いとクレームでもつけるのかとヒヤヒヤしたが、そうではなかった。
「スミマセン、これと同じものください」
「追加でですね」
「そう、追加でね」
敦美はすまし顔で、そう言い放ちながら、ステーキの鉄板を、下げても良いよと言わんばかりの片隅に追いやった。
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