第27章サイドテーブルの上に、灰皿を重石代わりにして、一万円札がエアコンの風に靡いていた。
一万円札は、追加料金に配慮して置いていったのだろう。
それにしても、俺の方が遥かに年長なわけで、女が、延長料金にまで配慮する必要はない筈だった。
しかし、新宿駅で、女の後姿に誘われるようについていった俺は、その時点から、女の支配下に取り込まれていたのかもしれなかった。
ルノアールでの出会いも、その後の行動も、女のなすがままだった。
俺が、自主的に何かをしたことはなかった。頭の中では、様々な思いを巡らしていたが、それが、行動に現れることはなかった。
ようするに、女が去った時点においても、俺は、シャネル女の支配下にいるのだろう。
酷く脆い、いつでも壊せる支配の壁なのだが、媚薬の匂いが漂い、エッセンシャルオイルの膜で身体が包まれているような、奇妙な心持の壁だった。
一万円札の下に、走り書きをした女の名刺が挟まっていた。
“時間が迫っていたので、声かけずに帰ります。昼間にでも、携帯に連絡入れてください。怖い女なんて思わないで、必ず連絡くださいね。新井寿美”
綺麗な字だった。シャネル女は、自ら朝鮮系の民族だとしらせていた。名前が、それを無言で知らせていた。
きっと、連絡を入れる時は、そのことも承知の上で、連絡してきて欲しいと云うメッセージなのだろう。
まだ、4時間は経っていなかったので、そそくさと着替えて、旅籠を後にした。
きっと、俺は、女に連絡するだろうから、その時、一万円を返せばいいと、財布にねじ込んだ。
しかし、と俺は思った。
西東京の外れに位置している焼肉屋がいくら繁盛しているいっても、稼ぎは知れたものと想像できた。
しかし、女の持ち物や服装、仕草など、裕福さは板についたもので、一朝一夕で身につけたものではなかった。
本人か、或いは親が、潜りで金貸しをしているとか、そう云う裏稼業をしている臭いがした。よく耳にする、北朝鮮への送金ルートの闇銀行を運営しているのかもしれなかった。
そう云う想像を働かせると、先ほどの敦美という“爆弾女”の何十倍もの破壊力のあるクラスター爆弾に近づくようなものかもしれなかった。
しかし、それでも、俺は、あの女と再会したかった。
想像のリスクを怖れている人生など、無いのに等しい。ひっそりと、健康管理に勤しむ長生きなど、御免蒙りたい。
ヤクザ者ではないが、飲む・打つ・買う、で人生充分だった。
たまたま、ヤクザと違う点は、物書きとして生業が出来ている、それだけのことだった。
間もなく、50歳になる。織田信長の幸若舞“敦盛”一節や小唄の節を真似るわけでもないが、
“人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け
滅せぬもののあるべきか”
“死のうは一定(いちじょう) しのび草はなにをしよぞ 一定かたりをこすのよ”
そんな心境だった。
人間の一生で確実に訪れるのは、誕生と死だけだ。
しかし、誕生は無自覚なものなので、パーソナルな領域ではあっても、欄外な観念だ。
自覚的に確実な人間の起承転結は“死”があるだけといっても、言い過ぎではない。
どんな人間にも約束されていることは、肉体は必ず滅びる。必ず死ぬと云う保証だけがあるのが、生命のあるものの宿命だった。
だったら、50年も生きられたのだから、残りは余生みたいなもので、今さら怖れるものなどないだろう。
つづく
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