第371章翌朝、軽い朝食を済ませ、一時間くらい後に、看護婦が骨髄検査(骨髄穿刺)の準備をしましょうね、と入ってきた。
どこか処置室に移動するのかと思って起きあがり、身構えた。
「あぁ、ここで行いますから、ベッドでうつ伏せになって、下着を少し下げていただけますか」
骨髄を抜くのだから、お尻の付近だろうなとは思っていたので、思いっ切り下げておいた。看護婦は、そこまで下げなくても、といわんばかりに、下着の位置を修正した。
その後、おそらく消毒液だろうが、針を刺す部分をまんべんなく消毒した。その処置が終わって間もなく、村井先生が入ってきた。
「おはようございます。特に変わりはないですね」
「ハイ」私は、うつ伏せなので、くぐもった声で返事をした。
「血圧は上が125、下が75です」看護婦が答えた。
「さすが、平常心のままですね。では、麻酔を打ちますので、チクリとします」
予備知識はあったが、三か所に打たれた麻酔の針は痛かった。しかし、この程度の痛さに我慢できないようだったら、無謀ともいえる早期の経膣分娩など、口に出す資格はなくなる。
「これからの、骨髄液を抜く針を刺します。刺すのは痛くない筈ですが、液を抜くとき、違和感か、鈍痛があるかもしれませんけど、一瞬です」村井先生は、針を刺すべき部位を指先で確かめていた。
残念なことは、麻酔が効いているので、村井先生の指が冷たいのか、温かいのか、柔らかいのか分からないことだった。
こんな状況で、男の指先の感触を知ろうなどという感覚を持っているのは場違いだったが、そういうことで気を紛らわす権利が患者にあっても、特別問題はなかった。
たしかに、刺された時点では痛みはなかった。おそらく、想像だけれど、頑健な針先が、骨の中に入ろうとしている感覚はあった。感覚の中に、痛みはなかった。
「これからの液を抜きますからね。いち、に、さんで抜きます。ちょっとだけ我慢ですよ」
村井先生のバリトンがかった声が掛け声をかた。グイグイと身体の一部が抜き取られるような妙に重々しい苦痛が襲ってきたが、痛みなのかどうか、一般的感覚を表すぴったりの言葉は見当たらなかった。
「充分取れましたから、これでおしまいです」村井先生は労わるように、背中の辺りに手を置いた。
背中には感覚があったので、そのゆびは骨ばっているのに、思いのほか温かく感じられた。
「今日中に病理の方に回しておきますので、明日の婦人科との打ちあわせの時には、結果が出ていますので、総合的に診断と治療方針が決められると思いますよ」
「愉しみにお待ちします」私は、半分冗談交じりに、村井先生の方を見つめて話した。
「愉しみにと言われると辛いですけどね、竹村さんの方に、その根性があれば、こちらも力強い」
村井先生も、私の言葉を前向きに受けとめれくれたようだった。
しかし、私が愉しみにしていたのは、産科の方の方針であり、血液内科の方の判断まで愉しみというわけではなかった。
看護婦が針を刺した部分に止血の絆創膏のようなものを貼り付け、三十分くらいは、動かないようにしてくれと言い残して、私は、再び個室で一人になった。
これで今日の検査は終わりのはずなので、考えられない程、何もしないでベッドに横たわっている時間が、目の前に長々の横たわっているいた。
こういう時間を過ごしたのは、いつだったろうかと思った。
社会に出てから、こういう時間に出あった記憶はない。大学の時代にあっただろうか。あの頃も、こんなに長い時間、身を置いた記憶はない。
高校時代は受験のことしか頭になかった。中学時代なら、こういう無為な時空間を経験していたかもしれない。しかし、その記憶は、あまりにも遠い記憶で、何一つ思い出すわけではなかった。
折角、こんなに考える時間があるのに、何も考えずにいることに、正体不明の罪悪感を憶えた。
テレビをつけてみたが、到底観るにふさわしい番組がある筈もなく、すべてのチャンネルを押す云う儀式を終わらせて、テレビを切った。
つづく
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